小田実さんに「玉砕」の著書がある。この夏、小田さんの訃報(今年の7月30日死去、享年75歳)を知って書斎の本棚から取り出した(1998年6月20日2刷・新潮社刊)。ドナルド・キーンさんが「感動した戦争文学がこの玉砕が始めてである」と激賞したのを知れば己の不勉強を恥ずるばかりである。このほか”積ん読の本”が数知れない。
この本には主人公が3人いる。一人は分隊長の中村軍曹。もう一人が分隊付き下士官、金(こん)伍長。さらに本の最後に出てくる日本人の娼婦である。
中村は24歳、農家の三男坊である。中学の講義録で独学で学習、専検に合格、現役兵として地元の師団に入隊猛訓練に耐え、模範兵として頭角を現わす。北満の地から委任統治領の南の本島を経て小島に送られる。
金伍長は半島人の日本人である。特別志願制度で志願して帝国軍人になった。銃剣術の腕前は中村と並んで連隊随一で射撃は連隊だけでなく師団一の腕前である。「歩兵操典は自分の動作を見て書いたものです」と豪語する。これまでの水際撃滅作戦から複廓陣地による持久戦に転換し「掘る。隠れる。生きのびる。たたかう」という部隊長訓示に「勝つ」を付け加えるしたたかさを持つ。
敵の空爆が日増しに激しくなる。中隊長までがグラマン戦闘機が投下した小型爆弾の破片で負傷する。代わって部隊で最優秀の将校の一人だという陸士での若い中尉がくる。みんなやる気になる。中村は夜襲訓練のあと軍歌演習をする。歌は「歩兵の本領」「関東軍軍歌」「戦友」「敵は幾万」。最後の軍歌演習中山口一等兵が別の歌をハミングしたのを聞きとがめる。山口は外国航路の貨物船の甲板員であった。
ハンブルグのビヤホールでドイツの兵隊から教わった歌「リリーマルレーン」であった(山口は歌の正確な題名を知らない)。歌詞は営門前で恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。日本ではマレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。多くのドイツ兵がラジオから流れてくるこの歌に故郷を懐かしみ涙を流し、アフリカ戦線ではイギリス兵も熱心に耳を傾けたという。さりげなくこのようなエピソードを織り込むのは見事である。しかも最後に恋人の日本兵を追いかけてくる日本人の娼婦の登場となる複線とも成っている。
本格的な上陸の前に敵の機動部隊の艦砲射撃と空爆が始まる。上陸の第一波は撃退した。水際撃滅作戦の主力部隊に位置する中村分隊長は部下にいう「わが中隊の射撃開始は敵が汀線150メートルにきてからだ。それまで血気にはやるな。剣道の平常心で待て」。さらに部下に軍人勅諭を心の中で思えとつけ加えた。「一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。一、軍人は礼儀を正しくすべし。一、軍人は武勇を尚ふべし。一、軍人は信義を重んずべし。一、銀人は質素を旨とすべし」私は陸軍進学校在学中、平常心を保ちたい時よく唱えたものである。「散れ武士し」と覚えた。戦前生まれとはいえ、小田さんはよくここまで取材したと思う。
上陸後の敵の集中砲撃、射撃、火焔は怒濤であった。戦争、戦闘というより集団殺戮、「鏖殺」であった。弾薬、食料、水、薬品が不足してきた。士気は低下する。二ヶ月も両軍の死闘は続く。本部が司令部に送った最後の電文は「現存兵力は健在者約50名、重傷者約70名、総計120名、兵器小銃のみ同弾薬約20発。統一ある戦闘を打ち切り残る健在者約50名を以て遊撃戦闘に移行、あくまで持久に徹し米奴撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ」
すでに米軍の主力はフイリッピンに上陸してここは見捨てられた戦場となる。重傷を負った中村は洞窟の中で恋人を追って本島からきた日本の娼婦と出会う。恋人はすでに戦死していた。「アメリカと戦ってカレの仇を討つ」という。「カレはわたしがはじめてほんとうに愛した男だよ。これはわたしの愛のいくさよ。だから、わたしのいくさよ」女性は山のてっぺんから銃を乱射して下の米兵をたくさん殺し、上空の飛行機まで打ち落として最後に撃たれて死ぬ。
日本のリリーマルレーンは恋人に会えず、カレの仇を討って壮烈な死を遂げる。けなげというほかない。
この話を信じると答えたのは中村軍曹であったのか、金伍長であったのか、小田さんは書いていない。「玉砕」がパラオ諸島のペリリュー島戦記を下敷きにしたとすれば、名連隊長中川州男大佐の戦意を受け継ぎ、ひたすら軍人としての実直な責任感を植え付けられた一部将兵はなお島内に潜伏をつづけ山口永少尉以下34人が戦いをやめて米軍に収容されたのは日本が降伏2年後、昭和22年4月22日であったと、児島襄著「指揮官」上(文春文庫)が書き記していることを付記する。
(柳 路夫) |