戦後B級戦犯に問われ、一人責任を負って絞首刑(昭和24年9月17日)となった岡田資陸軍中将(陸士23期)の名前を知っている人は少ないであろう。戦後の日本人はあえて知ろうともしなかった。このように国に殉じた武将を偲び、顕彰しない文明国は日本だけである。その岡田中将を描いた、小泉堯史監督・藤田まこと主演の映画「明日への遺言」(2008年3月1日から全国でロードショー)の試写をみる機会に恵まれた。(11月19日)陸士の期でいえば私より36期も上の岡田中将が米軍が問う「戦争犯罪」
に対した態度、軍司令官としての責任の取り方、死と向き合う姿勢など教えられるものが多い。このような先輩を持つのを誇りに思う。明日を担う若者にも共感を呼ぶに違いない。
第13方面軍司令官、兼東海軍司令官であった岡田中将は部下19名とともに名古屋空襲の際、落下傘で降下して捕獲された搭乗員・無線手ら38名を斬首したとして殺人罪で捕まった。ところが、岡田中将はこの裁判を「戦争の継続だ。法戦だ」と称した。それは昭和20年5月当時、38回に及んだ名古屋地方の空襲は無差別焼夷弾爆撃であった。特に5月14日の空襲は、機数486機、全投弾量2563トン、市の北部80パーセントが焼失した。法廷では孤児院の院長、列車車掌の車掌がフェザーストン主任弁護人の質問に答えて空襲が無差別爆撃であった様子を次から次に証言する。国際法からいえば空爆は軍事施設に限られる。無差別空爆をすれば戦争犯罪である。捕虜とは認められない。
岡田中将は決心する。「余の統率のもとにあくまで戦ひ抜かんと考えた。(略)吾人は当初においては、消極的な斬死案であった、しかるに米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、我が覚悟において強烈ならば、勝ち抜きうる者であると判断した」(遺書「毒箭」より)。
映画で岡田中将ら20名が刑務所内で一緒に入浴するシーンがある。岡田中将は体を洗いながら「ふるさと](作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一)を口ずさむと、みんなが之に和する。「こころざしを果たして いつの日にか帰らん 山はあおき 故郷 水は清き故郷」岡田中将のもとに被告たちがみんな心を一つにして戦っているいるのがよく出ていた。涙が止まらなかった。
B、C級戦犯裁判で岡田中将のケースはまれである。石垣島海軍警備隊事件(米軍艦載機の搭乗乗員3名を”斬首・刺突・死体損壊などの犯罪事件)では統率を欠きかってバラバラに証言、自分だけが助かろうとする醜い姿を露呈した。被告45名中40名が絞首刑の宣告された。後に再審で絞首刑が7名となり他は減刑された。
岡田中将は略式裁判ながら法的に問題がない。責任はあくまでも自分にあると主張した。岡田中将のいう責任とはこうだ。「司令官はその部下が行ったすべてについて、唯一の責任者です」岡田中将が一人でその責任を負うとしているのが誰の目にも明らかであった。バーネット主任検事、裁判長は岡田中将を助けようとして助け船を出すが、岡田中将は「違法行為があった場合に限る報復が認められる。この処刑は報復でなかったか」の問いに「処罰であった」と自分の信念を通す。
下された判決は岡田中将のみが「絞首刑」であった(昭和23年5月19日)。終身刑の判決も大西一大佐(陸士36期)だけでほかの被告は10年から30年の有期刑であった。「法戦]に見事勝利したのである。法廷を終始傍聴した夫人温子さん
(富司純子)はいう。「来生で生を受けることがあるならば、再び巡り会い、結ばれることを心より望んでおります。岡田資とはそのような人でございました」
これからの時代を生き抜く若者たちよ、これからの君たちの生き方がこの映画に明示されている。 |