2007年(平成19年)7月20日号

No.366

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追悼録(282)

画家・星郁子さんんの「遺作展」

  この1月98歳で亡くなった画家.星郁子さんの「遺作展」が東京・練馬区の自宅アトリエで開かれている(7月31日まで)。展示作品は100点にのぼる(制作された作品は1000点もある)。娘さんの星瑠璃子さんから初日(7月15日)に午後1時からオープニングパーティーをすると案内を受けたので出かけた。この日、あいにく、鹿児島に上陸した台風4号が関東地方に接近しつつあった。元社会部記者の私は台風は関東の南岸を通過してたいしたことはあるまいと判断した。もちろん万一に備えて防水用の上下を用意した。ところがなんとこの日のパーティーは中止したとのこと、お客は私一人であった。おかげで星さんからゆっくりと丁寧な説明を受けた。
 母・郁子さんは60歳から画を始めた。父は明治天皇の肖像を描いた洋画家高木誠一郎(脊水)である。夫も洋画家である。アトリエ一杯に並べれた郁子さんの絵は「子供」から「花」、次いで「自然」、最後は「花」で終わる。男の嗜好は「動物」「植物」「石」と年とともに変化する。私など未だに「動物」のままである。
 子供の画と言っても「広野にただ一人立つ幼女と空高く揚がる紙風船」など自然とともにのびのびと描かれている。明るい画が多い。郁子さん自身「独創性をもった画を」心掛けて精進した。さすが晩年の『花』の絵の色彩が暗い。郁子さんは画を書き始めてから絵筆を取らない日は一日もなかった。新協美術の会員になったのは画を始めてから8年目であった。それでも凄いと思う。この1年は車椅子でスケッチを欠かさなかった。娘の瑠璃子さんは言う。「天衣無縫、力強く明るい画です。母の絵はちっとも上手くない。そこに何とも言えぬ品格があり、魅力がある」
 私はその絵から純粋な心をもち.意思が強く、目的に向って真正面に取り組む明るい人柄を感じる。戦後、生活力のない夫と4人の子どもを抱えて「編集部員募集」の広告に飛びつき、42歳で就職、企画・広告を担当し、営業部長となり取締役になった。当然といえる。日本女子大25回生の郁子さんには創設者成瀬仁蔵先生が説いた「自発創成」「信念徹底」が染み付いていた。さらにいえば名君といわれた佐賀藩主、鍋島閑嫂の血を引く。明治41年3月永田町は今の首相官邸があるあたりにあった鍋島邸の敷地で生まれた。
この「遺作展」を企画・開催した星瑠璃子さんに私は母・郁子さんの心境になって
 「吾が娘(こ)知れ風雨強きを夏台風」の句を贈った。

(柳 路夫)

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