2007年(平成19年)7月20日号

No.366

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花ある風景(281)

並木 徹

薩摩義士の物語

 陸士時代の友人達とおいしいものを食べながら話を聞く会を定期的に開いている。3年前に始めたこの会の会員も36名を数え、出席率はいつも良い。この日も27名集まった(7月10日・東京・永田町・町村会館)。
まず弁護士の佐藤成雄君が82歳になった今なお自家用飛行機「ボナンザ・ビーチクラフト」機を同好の士6人と保有し全国を飛び回っていると話する。少年時代から飛行機乗りをめざし、幼年学校、陸士予科を経て航空士官学校に進み、操縦訓練に励んだ。敗戦でその希望も挫折したものの子供の頃の夢を戦後実現した。趣味といいながら年間の経費は相当掛かるという(燃料費など金額をあげて説明した)。
元西武の北京百貨店長の竹本連君は肺ガンを克服した話をする。なんの兆候もなかったのに定期検査で発見されたそうだ。「体の具合が悪くなくてもご用心を」とみんなに注意を促す。
元東京銀行監査役の若松省三君は「薩摩義士」の話をした。戦後、東大に進んだが高等学校は七高だけに鹿児島には人一倍関心があるようだ。薩摩藩が濃尾三川、木曽川、長良川、揖斐川治水の幕命(1753年、9代将軍家重の時代・宝暦3年12月)を受ける。参勤交代同様外様潰しの策略である。この三川は一度豪雨があれば一挙に氾濫して大きな被害を出す。抜本的な対策を講じるとすれば莫大な費用がいる。当時の薩摩は饑饉や借金で台所は火の車であった。幕命を受ければ財政の破滅は必死である。さりとて拒否すれば幕府を相手の戦争となる。24代藩主島津重年は苦悩の末受諾する。幕府の持つ「権力」には抗しがたい。
川普請奉行に任命された平田靱負は翌年(1754年)1月、現地に赴く。総勢947名が動員された。薩摩から300里はなれた他国の土地での仕事は過酷であった。工事の間「前からは幕府役人、後ろからは商人、横からは地元住民のいびり」があった。幕府役人とのいざこざで切腹した者52名、病死した者33名合計85名の犠牲者を出す。血と涙によって行われた作業で工事は1755年5月22日無事完了。費用は当初14〜15万両と言う見積の3倍の40万両に達した。この金額は77万石の薩摩藩の2年間の全収入を上回る。現在の金に換算すると、約480億円に相当する。
平田靱負は予算オーバーと多くの部下を死なせた責任を取って5月25日切腹する。享年51歳であった。工事自体は見事な出来映えで、明治時代になってオランダの技師ヨハネス・デレーケがその技術の高さを高く評価した。
彼らに対する評価は当時幕府への遠慮もあり、地元鹿児島でもこの工事で島津の台所がますます苦しく、領民の生活にもきびしい影響をあたえたので功労者として扱われず、記録もほとんど無いという実情である。
岐阜県海津町には平田靱負ら80余名を祭神とした「治水神社」があり、薩摩義士を描いた杉本苑子の「孤愁の岸」上下2卷(講談社・48回直木賞受賞)が出版されており、世に知られているが赤穂義士のようには喧伝されいていない。「のしかかってきた理不尽な重圧」を跳ね返した武士の有り様は現代人にも通用する生き方である。これから大いに「薩摩義士」を宣伝したい。

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