2007年(平成19年)7月10日号

No.365

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追悼録(281)

聖将、今村均大将を偲ぶ

  最近なくなられた平岩外四さんが戦時中、ラバウル方面軍司令官、今村均中将(陸士19期)のもとで米軍と戦っていたとは知らなかった。今村軍司令官がラバウルで自給自足の態勢を整えたおかげで平岩さんは助かったという(7月8日毎日新聞「今週の本棚」この人・この3冊・丸谷才一・選)。素晴らしい人格者と尊敬した平岩さんが「企業人の読書日記」に今村大将について書き残している。「大将の生涯の生き方は、傲ったところが少しもなく、謙虚そのものである。真心と立派な見識を持って、事に当たっては、浪風を起させない賢明さがある」(前掲毎日新聞)。
 日本エッッセイストクラブの常務理事で私より陸士一年先輩(58期)の深谷憲一さんは日本経済新聞文化部長の時、今村大将にインタビューして今村大将の随想「運命のふしぎさ」の一文を掲載している(昭和39年8月15日)。その取材を通じて「なぜラバウルは難攻不落で米軍が敬遠したか」というナゾも解けたという。7万人の兵が1トン爆弾に耐える地下50メートルに東京―大垣間に相当する延べ400キロメートル余の坑道を四通八達させ、大砲さえ収容したこと、兵器工場まで造り対戦車爆雷を8万個準備し訓練していたこと.”餓島”といわれたガダルカナル島からの撤退兵(転進と称した)の栄養回復と内地からの補給難に対処するため原始密林を拓いて空爆下に実に7千町歩(約2千万坪)の自活農園を作り陸稲、さつまいも、南瓜など何でも作って自給態勢を整えていたこと等等・・・今村大将は若いときから聖書と歎異抄をはなさなかった。深谷さんはインタービュー中、「本当の孫(深谷さんとは年齢が40歳違う)に話し掛けるような慈しみの温情がひしひしと伝わってきて、その限りなく柔和な顔に接していると自然に頭が下がるような気がした。本当に偉い人にあったと、この日ほど感じたことはなかった。その後もない」と「日本記者クラブ会報」に書いている(会報266号1992年4月)。
 今村大将は昭和43年10月4日死去、享年82歳であった。青山葬儀場の葬儀には防衛庁は初めて儀杖隊を派遣、弔銃の礼で送った。今村さんは昭和の乃木大将といわれた。その偉大さは戦後の発揮される。オーストラリアの戦争裁判で禁固10年の刑を受けた今村さんは赦されて巣鴨刑務所で服役中、部下の多くがマヌス島の刑務所で苦労していると知ってマヌス島へ送ってくれと3度、GHQに申し出る。マッカーサー元帥は「日本の武士道いまだ亡びず」とこれを許可した。昭和25年2月、同島ヘ送られて服役する。誰もができることではない。今村さんの同期生の一人は「生き身のまま仏様になってしまった・・・」と評する。
親鸞の「浄土和讃」にいう。「弥陀の名号となえつつ/信心まことにうるひとは/憶念の心つねにして/仏恩報ずるおもいあり」。私はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えるのみである。

(柳 路夫)

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