特攻の母、鳥浜トメさん(岸恵子)は映画「俺は、君のためこそ死ににいく」(監督・新城卓、脚本・石原慎太郎)の最後のシーンでつぶやく.「思えば、もう遠い昔のことかも知れもはんが、いつまでん忘れることができもはん。みんな素晴らしか、美しか若者たちでございもした」
昭和20年春、沖縄を守るため鹿児島県の知覧飛行場は陸軍の特攻基地となった。ここから終戦まで439人の若者が飛びたった。米軍の主力が沖縄本島の上陸したのは4月1日。その日鹿屋など9基地から特攻機が49機が飛び立つ。知覧から第23振武隊4機が出撃する。沖縄の玉砕は6月23日だが、6月11日まで知覧からの出撃は110回に及ぶ。特攻平和観音堂には1015柱が祭られている。
トメさんはここで軍指定の「富屋食堂」を開き、若き飛行兵たちから母親のように慕われた。朝鮮人でありながら特攻を志願した金山少尉(前川泰之)は差別や偏見もなく温かく接するトメさんに「ここはふるさとに来たような気持ちになる」という。最期の夜、「アリラン」を歌う。「アリラン・アリラン・アラリヨ/アリラン・コーゲイロ・ノーモカンダ・・・」戦闘帽を真深くかぶり顔を隠し切々たる哀調帯びた金山少尉の歌にトメさんらは嗚咽する。私も自然と涙が頬を伝う。
特攻に志願した朝鮮籍の軍人は10人を超える。陸士56期生の高山昇中尉(朝鮮名・寉貞根)は航空士官学校在学中、同期生の一人に「俺は、天皇陛下のために死ぬということは出来ぬ」と苦衷を漏らす。その高山中尉も4月2日徳之島の基地から沖縄へ突っ込み戦死する。特攻の出撃機種はさまざまだが99式高等練習機が9機、知覧から出撃しているのには驚いた。満州で操縦訓練をしていた同期生の航空兵が使っていた卒業間際の飛行機が99式高練であった。本土決戦の際、これに爆弾を積んで特攻攻撃するはずであった。操縦技術のうまい候補生から高練に習熟させたと聞いた。
トメさんが憲兵隊に捕まる。出撃する特攻兵のために営業の門限は守らず、検閲を通さず、隊員たちの手紙を出すので狙われた。特攻出撃に失敗し戻っていた坂東勝次少尉(窪塚洋介)は憲兵隊に飛び込みトメさんを救おうとするが逆に拘留されてしまう。基地司令の計らいで釈放されたトメさんは憲兵隊の隊長に「明日死に行く若者達になぜ門限や検閲が必要なのか」と食って掛かる。出撃のたびに飛行機の故障で引き返してくる田端紘一少尉(筒井道隆)。「蛍になって帰ってくる。残りの30年の命をあなたに上げる」とトメさんに言い残して散った河合惣一軍曹(中村友也)などトメさんを巡ってさまざまなドラマが展開される。それぞれが胸にぐさりと響く。
昭和19年10月25日、関行男海軍大尉(海兵70期・的場浩司)が指揮する特別攻撃隊「敷島隊」はレイテ島沖の米軍の艦隊に特攻、多大なる成果を上げた。特攻は妻がある関大尉には苦悩の選択であった。米国海軍作戦年誌によると、沈没したのは軽空母1隻、軽空母6隻が中破または少破されたとある。この成果を一番喜んだのは特攻を「外道なり」といいながらこの戦術を採用した大西瀧治郎海軍中将(海兵40期・伊武雅刀)であった。敗戦のの翌日、介錯なしの割腹自刃をする。享年55歳。映画のこのシーンは凄酸である。遺書「特攻隊の英霊に曰す」の中で一般青壮年に告ぐとして「隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。諸氏は国の宝なり。平時に処し猶お克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽くせよ」とあった。若者よ、この遺書をなんと読む。
鳥浜トメさんは平成4年89歳でこの世を去った。同期生、高尾正英君(航空戦闘・川崎在住)の進めでこの映画を見た。雨でゴルフ会が流れた日であった。持つべきは友だとつくづく思う。
(柳 路夫) |