寝ったきりの女性が「書くことは生きること、心の平穏を得ること」と「自省抄」と名付けた日記を書いている。何とかなりませんかと、藍書房の小島弘子さんから相談を受けて始まったのが池上三重子さんの「自省抄」(第1回・平成16年8月1日号「
銀座一丁目新聞」)である。連載すること64回(平成19年5月1日号)、池上さんの死(本年3月27日・享年83歳)によって中止を余儀なくされた。2年9ヵ月の連載期間中、池上さんとはさまざまな交流があった。とりわけ多発性リウマチ様関節炎で50年間も寝たままの生活で頑張っている姿に幾度となく励まされた。立って歩いている大の男がちょっとしたことで挫けるなんてだらしなさ過ぎると思う事がしばしばであった。
小島さんは鎌倉書房時代、三重子さんが昭和63年に104歳で死んだ母親キクさんとの思い出を綴った「わが母の命のかたみ」を出版(平成3年2月刊)して以来、三重子さんとは文通を続け、お見舞いにも訪れている間柄であった。「自省抄」を読むと教え子達がよく訪れている。よい先生であったのであろう。毎回のことだが「母よ 今夜も夢見が楽しみです」と母が出てくる。「母恋わば御血わけたるこの身こそ二無きかたみとわれ思わん」と歌ったように一心同体であった。母キクさんは死ぬまで三重子さんの体を綺麗に拭き、寝たままの老人にありがちなアカが体にこびりつくようなことはなく、普通の女性と同じような肌であったと周囲の人たちを驚かしている。
思いもかけず西日本新聞が一面のコラム「春秋」で銀座一丁目新聞に「自省抄」が掲載されているのが紹介された。「<来世あらば身健よかに夫に添わん碧明るき空に柿照る>。福岡県大木町出身の歌人
、池上三重子さんをご記憶だろうか▲五十年前、小学校教諭をしていたころに多発性リウマチ様関節炎を発症した。不治を宣告され、夫を愛するがゆえに離婚する。歌集は全国に紹介され、書いた本は若尾文子さんたが主演して映画やテレビドラマにもなった▲・・・」(平成4年10月5日)おかげで「自省抄」ヘのアクセスが多くなった。
池上さんが詩人黄瀛について書いた(「自省抄」38・39=平成17年8月20日号9月1日号)。黄さんは事務所で働いている傅亮君の母親、楊霞斐さんと四川外語学院の同僚で、傅君は黄先生によく可愛がられたという。傅君の結婚式にも出席された。元気付ける意味で古本屋で探した黄さんに関する本と靖国神社の栞、結婚式の時に頂いた「黄さんの名詞」を三重子さんに贈った。黄さんは中国留学生20期生として陸士で勉強されたことも知ったのでそのいきさつを書いた「花ある風景」(213・平成17年9月10日号)も送った。大変に喜ばれたと後で聞いた。
池上さんは死ぬまで福岡県大川市の特別老人ホームで書きつづけた。連載の初めから、折にふれて「死」について触れる。「憧憬の死が至らねば生は余儀なし。静かな諦観?と自ら眺めやる私の内奥が痛ましくも不憫とも」(1回)西日本新聞の藤村玲子記者には「死にたいという思いや無常感が常に心のそこにあった」と語っている。彼女の書くということは祈りであった。写経にもにた様に思う。甥の池上隆昭さんから小島さん宛ての手紙には「お蔭様でよき晩年を送り、安らかな永眠を迎えることができました」とあった。 |