大連時代の友人、湯下賢君が4月26日に死んだ。享年81歳であった。若くして脳梗塞で倒れ長く佐賀県で療養生活を送っていた。彼は私たちの会にも全国大会にも出てこなかったが、時々彼を訪ねた友人達から「元気でいる」と聞いていた。平成13年6月、湯下君を特別養老老人ホーム済昭園(佐賀県塩田町)に訪れた井手正登君(佐賀県竹雄市在住)から一緒に写した写真を頂いた。その時の手紙には「家内と面会に行きました。終戦2年程、台湾からの引き揚げ業務をした後、東大へ6年ぐらい在学、昭和30年に入って脳梗塞で倒れ長期療養を余儀なくされた。言葉も歩行も不自由ではなく、元気な様子であった」とある。
私が毎日新聞の社会部の察回りの時、東大校内で湯下君と偶然会い「何を専攻しているの」と聞いたら「哲学を勉強している」という返事であった。昔と変わらず落着いてゆっくりした語り口であった。昭和24年頃の話である。それ以後湯下君とは会っていない。何故か彼には親近感を持つ。戦争中、陸と海の違いがあっても軍の学校に進んだからであろう。昭和18年4月陸士に入学した私は湯下君が山田豊君(平成6年10月死去)や栗山五郎君(平成14年9月死去)とともにこの年の12月、海兵に入校(75期)したのを在校中知った。ともに「死を覚悟した」敗戦までの日々であった。私たち陸士の生徒が毎朝、校内にある雄健神社前で軍人勅諭を唱えれば3号生徒の湯下君達は就寝前自習室で「五省」で反省した。「至誠に悖るなかりしか」「言行に恥づるなかりしや」「気力に欠くるなかりしや」「努力に憾みなかりしか」「不精に亘るなかりしか」。
陸士予科時代の校長、牧野四郎中将(陸士26期)は私たちに「武士的情緒を涵養し花も実もあり血も涙もある武人たれ」と教えた。海兵の校長、井上成美中将(海兵37期)は「いったいどこの国の海軍に自国語しか話せない将校があるのか」と英語教育廃止論を退ける。むしろ英語や数学などの一般教養を重視したという。昭和19年8月に海軍次官になるから湯下君らが薫陶を受けたのはわずか8ケ月だけだがその影響は大きかったものあったであろう。
「五省」を毎年手帳が変わるごとに書き写す。時々眺める。80歳過ぎた昨今、「努力に憾みがあり」「不精に亘る」ことが多くなった。湯下君の悲報に接し教育の大切さをいまさらながらのように思う。
(柳 路夫) |