鹿児島県の急患搬送の要請で自衛隊沖縄基地を飛び立ったヘリが徳之島北部山頂付近に墜落、機長、建村善知1佐ら隊員4名が殉職した事故があった(3月30日夜)。機長は飛行時間4850時間、急患空輸249回のベテラン機長であった。それでも悪天候に勝てなかった。この事故に東京都荒川区東尾久5丁目にある杉野治義工兵中尉(陸士23期)の殉職遺跡碑を思い出して訪ねてみたくなった。
杉野中尉は大正6年3月25日午前11時45分、千葉の下志津から所沢飛行場へフランスから輸入した複葉モーリス・ファルマン2号機で高度500メートルで帰航中、雹まじの突風に翼を折られ機体がバラバラになって尾久村(当時)の水田に墜落、殉職した。徳川好敏工兵大尉(陸士15期)が同型の飛行機で飛行に成功して7年後の出来事。翌年の一周忌に殉職遺跡碑が建てられ、今日まで地元の人たちが碑を守ってきた。大正、昭和、平成と時代が移り、人が変わっても殉難供養と空の安全を願ってきた地元の人々の気持ちが嬉しい。
さる日(4月17日)、地下鉄の南北線市ヶ谷駅から王子駅まで行き、都電荒川線の王子駅から熊野前で下車。初めて乗る都電は混んでいて、早からず遅からずで立派な「都民の足」であるのを実感した。碑は尾久小学校の傍。熊野商店街の中程にあった。丁度角地で、お稲荷さんの傍に建つ。その脇に殉職機の25分の1大のステンレス製、複葉飛行機のモデルがある。大木が一本高くそびえ碑を守る如くであった。
杉野中尉は岩波ホール総支配人高野悦子さんの伯父で、幼年学校から陸士に進んだ俊英であった。同期生には31軍司令官としてグアムで戦死した小畑英良大將、名将といわれた第56歩兵団長、水上源蔵少将などがいる。高野さんは「伯父は陸軍砲工学校で発動機の研究に打ち込み、将来を嘱望されていた。当日の飛行は家族持ちの別の人が操縦するはずであったのを自分は独身だからと代わっての飛行であった。地元の人々が供養を続けているのは感謝のほかありません」と語っている。
航空碑奉賛会から出版されている「陸軍航空の鎮魂」(昭和53年3月2版発行)に杉野中尉の殉職遭難の碑についても、殉職者としてもその殉職の経緯も記述がない。民間の方々が供養しているからであろうか、惜しまれる。
(柳 路夫) |