2007年(平成19年)4月20号

No.357

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自省抄(64)

池上三重子

 3月8日(旧暦1月19日)木曜日

 友人に手紙を書く。宅急便のお礼といってはなんだが、酒の肴にもよしご飯のお供にもなる当地の産物を送ったら、とても喜んでもらえたのである。

  先日は沢山の贈物をありがとうございました。羨ましいのはお酒召しあがること。下 戸の悲哀は父譲り、母は家でつくる梅焼酎を旨そうに口にしていましたから。それに母 の娘時代、生家で焼酎を造っていたそうですから、農家の楽しみだったのでしょう。焼 酎を造るときは米糠もいっぱい積んで醸したようです。
 この私、頂くのは垂涎の態でしたが席は大々好き、盛りあげ役にまわっていました。  いいなあ、飲めるっていいなあ!
  たーら
  たーら
  のよだれくりは歌舞伎の寺子屋、松王丸を思い出しました。
   梅ハ枯れ 桜も枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらむ
  田舎芝居の興行期間中、日参する私は母に「舞台(ぶて)解きまで行きゃよかたい」 とからかわれていました。藁で造った木戸で払うのは一銭(?)ぐらいだったでしょう か。
  紺屋高尾太夫の真似など得意でした。
  楽し楽しの思いを甦らせて頂いてベーエベロサンキューでございました!!

   天てんテン
   天神様のお祭じゃ
   ちょっと通して下しゃんせ
   ご用のないもの通しゃせぬ
 母の歌声が耳に響いてくる。毎月二十五日のお天満宮さんの日だけでなく、菅原道真公贔屓の母の十八番、いつのまにやら鼻歌まじりに口をついていた。
 母の耳学問は祖父・善三譲りか。
   去年ノ今夜 清涼に侍ス
   秋思の詩篇 月断腸
   拝侍シテ 毎日余香ヲ拝ス
 おぼつかない記憶となりつつあるが、母の繰り返していた愛誦譜よ。
 記憶の糸は、父の哀しみに誘う。父を「分からずや」と思いこんでいた私……神童と呼ばれた兄を背景にした小躯の人知れぬ苦悩が浮かびあがる。
 父は幼時に母と死別した。乳足らずがその小躯となったのでは、という私の想いはそこで苦悩に変わるのだ。
 いい物好きで、本家流に「亭主(父)の三割落ちが女房(母)の衣類選び」だったようだが、今に想えばせめて金銭で入手できる物で補っていたのであろう。乳足りぬ嬰児の負の部分を生涯、背の十字架としたのかと胸が疼く。
 若い頃、スズエちゃんのお祖母さんに当たる人と仲がよかったらしく、彼女は父が茣蓙の仕入れに通るのを待ちうけていたそうな。その人は、跡取りが亡くなったために家を継ぐことになり、養子婿に父を望んだが、本家の当主が拒んだという。そんな昔ばなしを母は例のとおり淡々と語ったものだった。
 短躯細心の、私の嫌いだった父にもそんな恋びとのいたことが嬉しい。
 村で一人だけ城内の学校に行かされたものの、士族の邑の子弟たちに互するにはあまりに差がありすぎ、止めたとも聞いた。
 父よ、ごめんなさい。あなたの自己中心で男尊女卑の尊大さが厭でたまらなかったが、二度炊きご飯も一人だけの卵飯も、袂のなかの肉桂玉もわけがあったのですね。人並みのものが食べられぬ虚弱体質がそうさせずにはいられなかったのですね。家の跡継ぎだけが大事にされる風習は、江戸幕府の罪に帰するか−
 晩年は、寝言にまでお念仏を唱えられた父上よ。よかったよかった。その死も床上の頓死。汚さず乱さず、と母上の絶賛のありさまだった。
 なつかしさは、兄の姿を求める。兄よ、兄上よ。あなたが生きておられたら……詮ないことながら悼む、惜しむ、哀惜する。
 ああ、でもこうして筆をとって心のうちを記すことのできる喜び。永寿園は私の終の栖家だ。広い一室を与えられて開放も密室もこころのまま、職員やパートの方々の入れ替りは辛いが、それは私の人間味が問われるところにほかならない。



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