2007年(平成19年)4月20号

No.357

銀座一丁目新聞

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花ある風景(272)

並木 徹

防衛大学の精神は廉恥・真勇・礼節

  友人たち22名(女性1名)と横須賀市の小原台のある防衛大学校(校長、五百旗頭 真さん・同市走水1−10−20)を見学した(4月11日)。いずれも戦時中、陸軍士官学校に学んで連中である。中には戦後自衛隊に進みしかも防大の指導教官を務めた男もいる。それぞれに感慨を持っての訪問である。午前9時半に京浜急行の「馬堀海岸駅」改札口に集合、タクシーで大学校正門に向かう。敷地65万平方メートル。今ここに1700名の学生が学ぶ。正面学校本館屋上に日の丸の旗が翻る。毎朝8時学生によって掲揚されると聞く。まず本館で防大紹介のビデオを見る。午前6時の起床から午後10時半の就寝までの学校生活・行事・演習風景を見る。開校記念日に行われる「棒倒し」にひき込まれた。かって陸士の予科時代、中隊対抗で「棒倒し」の試合をよくした。先輩も後輩もなく殴ったり蹴ったり夢中で決死・敢闘精神を養ったのを思い出す。記念講堂ホール中央廊下に設けられたモニューメント「廉恥・真勇・礼節」を見る。「資料館」にあった8期生の時に作られた「学生綱領」を読んでこれが防大生のバックボーンになる精神だと私なりに感じた。槙初代校長が説いた「BE GENTLENAN」からさらに深化したとものとみる。
 記念講堂にあったステンドガラス「若人の城」(原画・平松礼二)は迫力があった。海抜85メートルの小原台にある防大の西にそびえる秀峰富士を描き、学生の数に見合った桜の花びら2000枚を丹念にステンドグラス一面にあしらってある。
 学生たちの起居する居住区に行く。8人部屋。ベットの上には毛布3枚と枕が整然と置かれている。制服などはロッカーの中である。私たちの場合はベットのそばの整理棚に収納した。整理が悪いと区隊長にベットの上に衣類を放りなげられた。この整理に神経を使ったものだ。その隣が自習室。ある学生の本立てを覗くと教科書の参考書とともにジェムズ・ブラッドリー著「硫黄島の星条旗」(文春文庫)司馬遼太郎著「功名が辻」(文春文庫)YOSHI著「Deep Love」(スターツ出版)などがあった。私物の本の持ち込みを禁じられた私達の時代とは大いに違う。1年生から4年生まで同室である。銃は兵器庫に保管されている。日頃小銃の手入れをしなくてすむ。不寝番勤務もない。時には非常呼集がある。学生会館はスーパーさながらで何でも売っている。ここで月刊「文芸春秋」5月号(675円。町で買うより35円安い)と防大の「絵はがき」(入校式風景など8枚。525円)を買う。
 上野明男君の話に寄れば本部庁舎、50周年記念講堂、同記念講堂、人文科学館、図書情報館などは息子さんの武君が設計した。父が防大を見学に行くと聞いて、自分が設計した建物をコピーして送ってきたという。
 学生会館2階食堂で昼食を取った後、観音崎公園を散策する。途中防大の演習地を通る。新しい迷彩服を着た学生たちが訓練に励んでいた。陸士の本科時代、挺身奇襲、匍匐前進、1週間連続の夜間演習と演習地をはいずり回ったのが走馬燈のように頭を巡る。しばし演習地を逍遙する。森のロッジで休憩した後「戦没船員の碑」(昭和46年3月感性)に手を合わせる。大東亜戦争で戦没した船員は6万余人を数える。平成4年1月20日天皇陛下は皇后さまと一緒にここに訪れておられる。その時の御製「戦日に逝きし船人を悼む碑の彼方に見ゆる海平けし」皇后様お歌「かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか」
眼下は浦賀水道。大小の船が往来する。日本武尊が東征の際、弟橘姫が波を静めるため身を投げたのがこのあたりだという。観音崎灯台、東京湾海上交通センター、砲台跡などを見て回って観音崎京浜急行ホテルで一服して解散した。私の万歩計は1万9千 歩を記録した。意義深い一日であった。

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