2007年(平成19年)4月20号

No.357

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安全地帯(176)

信濃 太郎

澤地久枝さんの「家計簿の中の昭和」に思う

  澤地久枝さんに「家計簿の中の昭和」(文芸春秋刊)の著書がある。数字には弱いが、数字が持つ背後の物語には興味がある。磯田道史著「武士の家計簿」(新潮社)は面白く読んだ。天保13年(1842)7月から明治12年(1879)5月まで、約37年間(36年分)にわたる、幕末武士が明治士族になるまでの歴史が「家計簿」から浮かび上がってくる。私は日記をつける。その中に家計の数字はない。死んだ後輩の内藤国夫君は「メモ魔」で、入社以来の給料明細書をはじめ何んでも書き残していた。家計簿も立派な「わたくし史」になるのなら私もこれから「家計簿」をつける。
 澤地さんは本の中「滄海よ眠れ」(注・毎日新聞から出版・全6巻)の調査を着手した時、土地のローン以外借金はゼロ、普通預金に千何百万円があったと記している。さらに使った取材金額は5千万くらいになったと思うとある。当時、私が出版局長で澤地さんから二つテーマを出された。私は文句なく「ミッドウエー海戦」を選んだ。初めて日米双方から見た「ミッドウエー海戦をめぐる生と死」を描く作品であった。今でこそクリント・イーストウッド監督の硫黄島の戦争を「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」と日米双方から描いたといって話題になっているが、30年ほど前に澤地さんはその視点から「戦争」を捉えている。そこでこれまで概数であった戦死者の数を、日本側戦死者の総数3057名、アメリカ側362名と初めて明らかにした(1985年2月11日現在、いまなおこの作業は続いている)。「髪の色、瞳の色が違っても、戦死という異形の死を遂げた人への愛惜の念は共通している」と述べる。この本は画期的な文学作品であった。不朽の名作だと思う。ミッドウエー海戦を語る時、「滄海よ眠れ」を引用しなくては語れない。
 澤地さんには大変な散財をさせてしまった。昭和56年6月私は西部本社へ転勤したのでその後の澤地さんの苦労を見過ごしてしまった。有限会社を作ってその苦境を乗り越えられたとある。「法人にしていなかった ら日米全戦死者確認の仕事は確実に頓挫した」と書く。
 昭和60年(1985)12月に始まった澤地さんへの融資総額は、3年間で9千万になる。毎月70万円近くを返済を続けながら、昭和が終わったとき、まだ5千万円近い元金が残っていた。平成になって我孫子にあった不動産を売却してやっと残りの銀行の借金を返済したという。
 「滄海よ眠れ」 六の巻末の宣伝文に「・・・無名の兵士たちの生と死を通して”戦争”の実相に肉薄した渾身のノンフィクション」とある。書く作家の裏側の「家計簿の苦衷」を私は知らなかった。ひたすら頭をさげるのみである。これは「出し遅れた元出版局長の詫び状」である。

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