思いがけない出会いをする。日本アイスランド協会総会後のパーティー(3月5日・品川プリンスホテル)で児童文学作家、こやま峰子さんから名木田恵子さんを紹介された。「私は毎日にいた名木田一夫の娘です」という。名木田さんは毎日新聞整理部の名整理記者であった。私が社会部の警察周りの担当デスクの頃、昭和34、5、年だと思う。名木田さんが部長になる寸前ではなかったか。整理へ12月の歳末風景の写真説明の原稿を出した。紙面化された記事は、かな文字のない漢字ばかりがならんだ写真説明になっている。それでいて意味が通り歳末らしい雰囲気をかもし出していた。豊な感覚とちょっとした遊び心に感心した。「凄い整理部デスクがいるものだ」と脱帽した思い出がある。そんな話をすると恵子さんは「このようなところで四十数年も前になくなった父親の話を聞けるとは・・・」と涙ぐんでいた。それから1週間後、恵子さんから詩集「フィフティ」(私家版)と「レネット 金色の林檎」(金の星社)が送られてきた。添えられた手紙には「父のことなども詩にあるので・・」とあった。
名木田さんは整理部長時代に若くして死んだ(昭和37年2月7日・享年45歳)。奥さんもまもなく後を追った。小さかった恵子さんはおばあさんに育てられたと聞いた。
「幻の子供」
「親戚から/父と母の/子供のころのはなしを聞くと/泣きたくなってくる いつも /岡山のいなかで/不自由なく育った 父と母の/子供のころのはなしは/楽しいことばかり/幸福そうなことばかり/なのに/聞くたびに 涙がにじんでくる/二人とも長い人生とはいえなかったけれど/決して 不幸ではなかった/なのに/二人を思うと/いとおしくて だきしめたくなる/そう・・・・/父と母の 子供のころの/はなしを聞くたびに/私は/よかったね よかったね/と だきしめているのだ/幻の子供を」
名木田さんを知るものはこの詩を口ずさんでいるうち自然とこみ上げてくるものを抑えかねるであろう。
詩集のなかにある「宝の地図」も「ストロウ」も私の心をとらえる。名木田さんの鋭い感受性と天分が恵子さんに脈々と伝わっていると私は感じた。かってミリオンセラーとなった「キャンディ・キャンディ」の原作者(ペンネーム・水木杏子)だと知れば納得がいく。
狩野近雄さん(故人)の「記者とその世界」(自費出版)によると、昭和23年12月7日に創刊された夕刊「東京日日新聞」に名木田さんは整理部員として引き抜かれている。取材部長がローマ支局長だった小野七郎さん、デスクに名文家、福湯豊さんなど精鋭を選りすぐったとある。狩野さんは新聞の見出しをつけるのが上手かった。いまなお整理部のOBたちが狩野さんを「整理の神様」のように敬愛する。その狩野さんが一目おいたのが名木田さんであった。
恵子さんは昨年6月16日、整理部のOBたちが開く「三金会」に出席する。そこで秘話を披露した。父がなくなって遺族に200万円の借金が残されたという。部下思いの名木田部長が後輩を連れて飲み歩いた有楽町の飲み屋のつけであった。最後にみんで名木田部長が愛してやまなかった「ラバウル小唄」(唄・若杉雄三郎、曲・島口駒夫)を合唱した。
「さらばラバウルよ また来るまでは
しばし、別れの涙がにじむ
恋し懐し、あの島、見れば
椰子の葉かげに十字星」
社報(2006年7月号)でこの会合の模様を伝えた整理部同人の高杉治男さんは「恵子さんの胸に眠っていた、お父さんの大好きな歌、ぬくもりが甦ったのか彼女の瞳は次第にうるんでいった」と結ぶ。名木田恵子さんに心からのエールを送る。
(柳 路夫) |