西竹一中佐(陸士36期)はイースウッド監督映画「硫黄島からの手紙」にはかっこよく描かれている。戦車26連隊長として硫黄島へ派遣された西中佐(伊原剛士)が颯爽と島で馬を走らせるシーンがでてくる。硫黄島の司令官は10期先輩で同じ騎兵出身の栗林中道であった。従来の水際で敵を叩く作戦を止め地下壕を堀り徹底敵に防御作戦をとる栗林中将によく従い戦車23両ほとんどを地中に埋め要塞砲代わりとして戦った。戦死の状況は明らかではないが、映画では
砲弾の爆発で目をやられ、覚悟を決め部下を他へ転進させ、小銃で自決する。享年42歳であった。時期は米軍が上陸した昭和20年2月19日から1ヶ月後の3月21日か22日ころといわれている。
西中佐を一躍有名にしたのは昭和7年開かれた第10回ロサンゼルスオリンッピク大会である。馬術の大障害で優勝、金メダルをとったからである。愛馬ウラヌスは2年前にイタリアで自費で購入したものであった。西中尉は士官学校在学中オートバイに熱中したといわれるほど車好きでロス滞在中もコンバーチブルを愛用しアメリカの著名な映画俳優たちと交流していたと伝えられている。映画でも負傷した米軍捕虜を手厚く看護しながらウラヌス号で金メダルをとった時の写真を見せ、交き合った映画スターの名前を聞かせ、捕虜をびっくりさせる場面が出てくる。実は西中尉は
4年後の第11回ベルリンオリンピック大会にも出場している(大尉に進級)。この時は団体6位に留まった。監督は近代馬術の祖といわれた遊佐幸平少将(陸士166期)であった。遊佐少将も選手として昭和
3年の第9回アムステルダム大会、昭和7年のロスアンゼルス大会に選手として出場している。だが昭和の曲垣平九郎といわれた遊佐少将でもメダルを獲得していない。馬術での西中尉の「金」は光る。外交官の家に生まれた西は府立1中から広島幼年学校(
21期)に進み大正13年7月同期生330名と共に卒業する。閑院宮春仁殿下ら20名が騎兵科となる。異色の軍人で、坊主頭がほとんどの軍人の世界で長髪で押し通す。上官と取っ組み合いの喧嘩をしたり、警察官と殴り合いをしたり逸話に事欠かない。満州にあった戦車26連隊が昭和
19年66月転進命令を受け硫黄島に向う途中、輸送船が敵潜水艦の雷撃を受け沈没してしまった。戦車や火砲など多くの装備を失ったが人的損害は「行方不明2名」であった。部下が「わずか2名」と報告すると西連隊長は「その
2名と家族にとって大変なことである。その『わずか』という言葉は慎め」とたしなめたという(「戦場の名言」より・草思社刊)。異色の西大佐(戦死で一階級上がる)のオリンッピクの金に勝るとも劣らない「金言」である。
(柳 路夫) |