2006年(平成18年)12月10日号

No.344

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花ある風景(259)

並木 徹

秋葉洋さんの「天皇陛下と大福餅」を読む

 本の題名に驚く。この題にこそ著者の真骨頂があり。戦後の生き方を運命付けたとも言えそうだ。サブタイトルに「ある銀行員の昭和私史」とあるので銀行員の自分史かと納得はできる。著者は陸士57期で私の2年先輩である。このようなすばらしい先輩がいたのかと敬服する。秋葉さんは1924年3月、東京生まれ、東京府立四中から仙台幼年学校に進み、2年生の時結核にかかり休学、3年生の時、専攻していたフランス語の関係で東京幼年学校へ復学する。予科士官学校を経て航空士官学校へ。昭和19年3月卒業した秋葉さんは終戦を静岡の通信連隊で迎える。戦後、日大工学部を卒業、日本信託銀行に入社(昭和26年4月)、最後まで「至誠」を貫き通して波乱万丈の社会人生活を送る。
 秋葉さんはもともと思慮深く、合理的なものの考えをする方で純粋・信念の人であるとこの著書を読んで思う。予科士官学校に在学中の昭和16年12月8日の日記の書く。「ついに世界最強のアメリカと戦争を始めた。満州事変以降10年も中国と戦争を続けながら未だに決着を見ていないのに、新たに米国と戦端を開くのは如何なものか?この戦争の勝利の見通しは決して明るいとは思えない・・・」しかも文章の最後に当時公表されていた日米の戦力比較表を添えた。翌日区隊長に呼びつけられ、日記帳の書き直しを命ぜられた。「遂に日米開戦、八紘一宇の理想に向かい胸を張って前進しよう」とする。
 航空士官学校在学時の話である。ある土曜日。天皇家の慶事のお裾分けで一人二個宛ての大福餅がでた。秋葉さんは食卓についていた同期生5人に「天皇陛下は神ではなく人間だ」と切り出し「今食べた大福餅は天皇家の誰かが結婚したかあるいは皇子様かお姫様が生まれたお蔭で我々の口に入ったわけだが、およそ神に家族が存在するのは変だと思わないか・・・」とぶったのである。この発言の背景には父親の存在がある。のちに日大常務理事・学長を務めたが万葉記紀研究の国文学者であった。その影響で歴代天皇の恋歌の作品を諳んじており、和歌に関しては他の人より知識があったのも見逃せない。この発言が区隊長の知るところとなり「士官候補生にふさわしくない言動をした」というので謹慎3日を命じられた。時の校長は遠藤三郎中将(陸士26期・昭和 17年5月〜昭和18年4月まで校長)でその自叙伝に「学生の中に天皇は神でなく人間だと発言した者がいて、その処理に苦慮した」とある。戦後、非武装論を唱え、平和運動をした遠藤中将は思考が柔軟であったのであろうか。
 戦後社会人になられた秋葉さんは女性社員を大切にされた。会社では「掃除は女性の仕事」という風習を止めさせ男性社員も担当させたり、正月の女性社員の着物姿の出勤を改めさせたりした。人使いも上手く他の課のはみ出し社員を引き受け手いる。課員の勤務評価も5人の課員とともに集団討議して決定する。組合運動にも熱心であった。書記長の時、会社から頼まれて日大総長が「組合から手を切れ」と説得される。組合は東京都労働委員会に不当労働行救済の提訴を行い、正、副委員長の解雇撤回闘争の体制を強化し、ストライキ権を確立した時であった。秋葉さんの答えが立派である。「この大学に学ばせていただきましたが、多くの先生から学んだ真理の中で、一番大切なには人間同士の信頼と誠実であると理解します。その大学のトップである総長先生から仲間を捨てて安全な場所へ行けと奨められるのはどいう訳でしょう」
 秋葉さんは昭和54年、27年勤めた日本信託銀を優れた業績、さまざまな逸話、ユニークな話題を残して去る。その銀行も不良債権処理をめぐる「金融ビッグバン」の嵐に中で消えたしまう。秋葉さんは言う。「あとは人生の幕が下りるだけだ。その日が訪れるまでは、今まで通り人間の善意と可能性を信じて暮らす心算だ」。戦後会社で友人、とりわけ女子社員と食べた大福餅の味は格別であったと私は信じて疑わない。

 

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