2006年(平成18年)12月1日号

No.343

銀座一丁目新聞

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安全地帯(163)

信濃 太郎

生死をわけた航空券・この微妙な人の運命

 亡き仁藤正俊さん(今年10月14日死去・享年92歳)の夫人貴子さんから「20世紀を駆け抜けた男」 仁藤正俊伝を頂いた。そこに台北から広東行きの航空券を先輩に譲ったために命が助かったという秘話が出ている。昭和16年11月、社会部から仏印(現ベトナム)特派員を命ぜられた仁藤さんは苦労してやっと台北についた。12月1日中華航空「上海号」で広東へ行く予定であった。ところが現地の富田幸男支局長から「上海支局長の田知花信量さんが至急広東支局に行かねばならないが航空券が取れなくて台北で立ち往生している。君の航空券を譲ってくれないか」と言われた。知りあいの大本営参謀の紹介状で台湾軍司令部から頂いた航空券であった。仕方なく田知花上海支局長に譲った。
なんとその航空機「上海号」がバイアス湾(広東の近く)北方の山岳地帯に墜落、田知花支局長は殉職した。田知花支局長は日本人記者として初めて蒋介石とインタービューに成功するなど数々のスクープをものにした支那通であった。もしこの時、航空券を譲らなければ仁藤さんが運動部長として東京オリンッピクで「東京は招く」などさまざな企画を立て大活躍されることはなかったわけである。天の神は誠に味なことをされる。「生死をわける」のは人知をこえる。神の配剤と言うほかない。
 「特攻生みの親」と言われ敗戦時に自決した大西瀧治郎中将(海兵40期)にも次のようなエピソードがある。大正10年6月大西瀧治郎中尉は同僚の荒木中尉と同乗で偵察飛行中発動機に故障を起し海面に不時着した。波浪は高く飛行機は着水の際、大破した。二人は破片と化したフロートにすがり漂流を始めた。陽は西の傾きつつあった。水上機母艦「若宮」はこの事故を知らなかった。大西中尉は死を覚悟した。それでも泰然自若としていた。
するとはるか水平線上を第二艦隊司令長官、鈴木貫太郎中将(海兵14期・終戦時の首相)率いる第二艦隊「磐手」と「八雲」が通りかかった。鈴木司令官が双眼鏡で水平線上に浮かぶ動く黒一点を発見、大西中尉らに接近し救助した。まさに間一髪であった。鈴木司令官が双眼鏡で二人を発見しなかったら大西中尉の命はなかった。神様は「大西よ、もうしばらくお国のために働きなさい」と手を差し伸べたとしか考えられない。その後、第11航空艦隊参謀長、第1航空艦隊長官となる。昭和20年8月16日午前2時、軍令部次長であった大西中将は官邸で割腹自決を遂げた。遺書には「吾死を以て旧部下とその遺族に謝せんとす」とあり、辞世は「之でよし百万年の仮寝かな」と「すがすがし 暴風のあとに 月清し」であった。人は見えざる神に常に感謝しなければと思う。

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