2006年(平成18年)12月1日号

No.343

銀座一丁目新聞

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花ある風景(258)

並木 徹

「平成留魂録」出来上がる

 私たちの戦前戦後の生き方を描いた「平成留魂録」―陸軍士官学校59期予科23中隊1区隊ーの本が出来上がった。部数100部、219ベージ、31本の原稿が入っている。本の出版を祝ってささやかな区隊会を開いた(11月22日・東京神田・学士会館)出席者10名。亡き福田潔区隊長の息子さん、福田浩人さん(長岡京在住)を迎え、九州からの参加者もあって時の過ぎるのを忘れた。
 昭和18年4月陸軍予科士官学校に入校した私たちは予科を埼玉県朝霞で過ごし航空兵は1年で埼玉県入間の航空士官学校へ、地上兵は1年半で神奈川県座間の陸軍士官学校へそれぞれ進んだ。昭和20年8月の敗戦で私たちの志は挫折、その生き方は激変する。戦後60年を過ぎ、年齢も80歳を超えた。戦前、士官学校で学んだものはなんだったのか。戦場に散った先輩は「後に続く者を信ずる」の言葉を残した。「死ぬこと」を覚悟して訓練に励んだ私たちはそれを戦後どのように生かしてきたのか、今何を思うのか、その思いを記したのが本書である。予科23中隊1区隊の生存者は22名。このうち原稿を頂いたのは12名である。催促しても書いてくれなかった同期生もいた。
 区隊の幹事である田中長君(東京幼年・航空司偵)は日記(昭和18年3月22日から昭和19年3月17日まで)で予科時代の生活、訓練を綴る。将校生徒がどのように予科時代をすごしたか理解できる。「時空茫々60年余。私の生の現在までを支えたのは、この1年間、一途に一本の道を歩み結ばれた同区隊の人々を含む59期全同期生の絆であった。今、齢八十の歳月を刻んだ同期生一人一人に改めて感謝を捧げる」と結ぶ。福田浩人さんからは区隊長の遺品「振武録」を貸していただいた。昭和19年1月航空ヘ転科された時、区隊のものが寄せ書きしたものである。その寄せ書きが写真で本に収められてある。全員寄せ書きをしたことを忘れている。この日出席した北沢広(航空戦闘)にいたっては「俺はあんなに上手く書けない。誰かが代わって書いてくれたのだろう」という始末である。北沢君は「武窓生活を体験した一人として」と題して書く。背が低かったが腕力は強かったようである。隣の組との相撲の勝ち抜き戦では残り23人を全員負かしてしまった。また同級生をいじめた1年上の二人を相手に喧嘩して二人を同時に組み敷いてしまったという。同期生の小学生のころの出来事を知るのも興味深い。
 転科された福田区隊長のあとにこられた高橋義文区隊長(陸士53期)は「武窓回顧」と題して一文をいただいた。この中で「日本は古来、武士道の国、その武士道は禅の裏打ちのあるものだと思う。剣禅一致と言った。これらは総て自己に厳しいものであったと思う。いま一度教育のあり方を本来の姿に取り戻す必要があるのではないか」と書いておられる。筑後市から出席した下川敬一郎君(航空襲撃)は本の表紙の絵を書いてくれた。九州の九重山である(説明に阿蘇とあるのは誤り)。画伯でもある。下川君は航空士官学校で昭和19年末、航空分科決定時の事が特に印象に残るとして12月8日から12月24日までの日記を披露する。「何が何でも操縦に」と言う下川君の熱い思いが伝わってくる。輜重を第一志望した私などは彼の爪のアカをせんじて飲まなければならない。自衛隊・第一空挺団で「落下傘降下百十八回」を記録。そのことを記した深川忠興君(航空整備〉も「俺も第一志望輜重にしたよ」と言っていた。「俺は別に区隊長に怒られなかったよ」という。福田区隊長に私は叱られたので区隊長は人を見て法をを説いていたようである。同じく自衛隊にいった鈴木七郎君(航空整備)は自衛隊の歴史を詳しく書いた。彼は統合幕僚会議議長副官、防衛大学校大隊指導教官、滝川駐屯地司令兼第十普通科歩兵連隊長、沖縄地方連絡部長を歴任した。温厚誠実な人柄がそのまま文章に表れいている。
 区隊幹事の赤井英夫君(仙台幼年・歩兵)は「戦後60年の回想〕の中で鹿児島大学農学部教授時代、国家公務員一種(上級職)試験に合格することに力を注いだ話に触れる。林業職の場合難関で鹿児島大学の合格者は10年間に2〜3名であった。彼が鹿児島大学勤務した20年間の間、専攻生の合計は106名であったが、このうち30名が国家公務員一種試験に合格し、その他公務員を志望した人は殆どが県庁の試験に合格した。一種試験では優秀な成績で合格した者少なくなかった。目標を立てたらひたすら突っ走りやり遂げる元士官候補生の片鱗を見る思いがする。大学の夜学生から大学教授になった井下武厚君(船舶)。その一文から井下君が刻苦勉励の人であるのがよくわかる。戦後商社勤務であった鈴紀俊行君(広島幼年・船舶)からよくユダヤ商法の凄さをよく聞かされたかが、この日は国防の充実をといてやまなかった。私の「区隊史づくり」の呼びかけに真っ先に応じてくれた。その「所感」には「予科時代に学んだ軍事科学、機械工学、電気工学などが商社勤務後に勤めた自動車販売会社の仕事に大いに役立ちました」とある。この日欠席した丹羽喜久雄君(航空戦闘)は自分史を書いた。自衛隊在勤25年6ヵ月の大半を好きなパイロット・指揮官・幕僚として過ごした。区隊史作りの参考にと手元にあった資料を送って頂いた。感謝のほかない。私は「我がマスコミ人生」を書いた。殺人犯にインタービューした話から諸先輩に教えられた事や「下山事件」 「造船疑獄」「ロッキード事件」などの取材話を記した。先輩の後藤四郎さん(熊本幼年・陸士41期)の座右の銘「敬神・努力・浮気・楽天」は私に痛烈な影響を与えた。同期生は元士官候補生という矜持を忘れずそれぞれの職場でそれなりに自分の志を貫いた。その思いは一つの精神史となり次の世代へ伝わってゆくものと信じてやまない。

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