皆さんは父親のことを知っていますか。私は殆ど知らない。もっと父親からいろいろな話を聞いておけばよかったと後悔している。
父定男は昭和53年1月14日、本籍地の長野県下伊那郡喬木村で老衰のためなくなった。享年89歳であった。私がたまたま毎日新聞の取締役だったので各方面から花輪を頂いた。お蔭で盛大な葬儀ができた。感謝のほかない。
父は少尉候補生4期で大正12年12月、豊橋連隊の下士官から陸士に入校、翌年11月卒業、少尉に任官、大阪の8連隊に着任している。豊橋の連隊の時、演習で岡崎に泊まった際、母をみそめ、休みのたびに母を訪ねたというエピソードを聞かされたことがある。8連隊では連隊旗手をしていたこともあり、軍旗祭で連隊にいった記憶がある。私はこの大阪で生まれた(大正14年8月31日)。大正天皇の誕生日であったので父が「節男」と名付けたと聞いた。。当時は天皇誕生日を「天長節」といった。
昭和8年春、父は予備役となり、ハルピン学院の生徒監としてハルピンにゆくことになった。我が家は男兄弟7人で、末っ子の弟が昭和7年1月生まれたばかりであった。恐らく大勢の家族を養ってゆくために給料の良いところを選んだのだと思う。満州国の独立が昭和7年3月である。「ハルピンは匪賊の出る怖いところ」と聞いていた。何もそんな怖いところに行かなくてもと子ども心にも不安を感じた。来てみれば、異国情緒の溢れた良い街であった。ハルピン駅の真正面にあった葱坊主の尖塔を持つ中央寺院は忘れ難い。ギリシヤ正教ニコラエフスキー大寺院といった。この寺院は心無い紅工兵に打ち壊されて今やその面影を留めない。朝夕になった中央寺院の鐘の音が懐かしい。「ハルピン学院史」には配属将校、内田与助中佐の外務省宛て報告書の中に「配属将校の外教練教師として予備役歩兵大尉牧内定男あり教授力に不足なし」とある。外部資料で知った初めての父の消息であった。
敗戦で挫折したといえ父の職業を継いだのは7人兄弟のうちで私だけのだからもっと父の軍隊時代・戦後の生活などを聞いて置けばよかったと思う。要は仕事にかまけてずぼらであったということである。風樹の嘆である。
その意味では私の二人の子供は幸せである。昨年から手掛けていた私たちの戦前から戦後の青春時代を記した本がやっとまとまり、11月には本になるからである。題して「平成留魂録」―陸軍士官学校59期予科23中隊1区隊−とした。その中に「私のマスコミ人生」が載っている。
(柳 路夫) |