花ある風景(241)
並木 徹
友人のハガキに感あり
大連二中の友人で剣道部で一緒であった重岡正信君(熊本在住)から近況を伝えるハガキがきた(6月13日)。「寡骨(心貧しい者の意と広漢和辞典で知り専ら使用中)は人嫌ひ強まり、読書三昧の日々」とある。彼はなかなかの読書家で、年賀状には半藤(一利)の「昭和史」大森(実)の「激動現代五十年史」 北(康利)の「白洲次郎・・・」と橋本(治)の「二十世紀」をたてつづけに読みつないで私自身の昭和を総括していますが・・・とあった。私は「白洲次郎 占領を背負った男」しか読んでいない。
社会部時代からの癖で「広く浅く」
手当たり次第に気のむくままに本を選んでいる。月刊「前進座」(6月1日号)に「周五郎さんの”こっけいもの”の最後の作品に『ひとごろし』があると紹介されていたので手にとるとなかなか面白い。そこで新潮文庫の山本周五郎を3冊買い暇に任せて読んでいる。
重岡君は戦後、テレビ界に進み重職についた。いまのテレビ業界の愚劣さについて一文を私たちの古希記念文集「となかい」に寄せている。その「憤怒の弁」の書き出しは「然るべき人が 然るべき時に 然るべき場で 然るべき発言」との言葉で始まる。多くの知識人がこのことを怠ってきた。あれよあれよと言う間に人間が破滅の淵に落ち込むのは歴史が明らかにしているところである。重岡君は書く。「メディアのいずれを問わず、無教養、品性下劣の徒輩が世俗に迎合、いや教唆、扇動に近いたくみなレトリックで虚色の報道番組を拡散しているその無責任さが憤怒の原点である」。10年たってテレビ界はますます愚劣の一途をたどっている。ドキューメンタリー映画「グットナイト&グッドラック」でエドー・マローが言うように「娯楽と逃避に走るテレビは箱に入った機械」に過ぎない。日本のテレビ業界には識者が機会あるごとに勇気ある発言をしなくてはなるまい。私も時には発言したい。 |