2006年(平成18年)6月1日号

No.325

銀座一丁目新聞

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追悼録(240)

「ヤーさんと喧嘩した粟屋哲郎君」

  大連二中の同級生、粟屋哲朗君がなくなった(5月14日・享年81歳)。同窓会誌「となかい」の編集の世話役であリ、つき合いのよい粟屋君であったので、同級生8名が小田原での葬儀に参列した。旅順高校でも一緒であった大城戸貞雄君は体調が思わしくないのに奥さんと共に姿を見せた。彼との思い出は小田原市の外れ飯泉橋のほとり、酒匂川河原の「野鮎を楽しむ会」であろう。河原の一角に鮎を食べさせる店がある。ここの鮎は美味しかった。店主は大学出の元ヤーさんだが、粟屋君とは親友である。その馴れ初めが面白い。
 昭和55年8月22日、粟屋君は会社の箱根での慰安旅行の帰り、母の家に近い酒匂川の河原でオンボロバスの店に立ち寄った。店主は肩から二の腕まで入れ墨がみえるヤーさんである。缶ビールを2本呑み、3本目を要求したところ「ここは酒を飲むところではない。とっとと帰れ」と罵声を浴びせられた。その夜は悔しくて寝れない。何ずれここで住もうと思っている。あんなヤーさんにでかい面されたは困る。一計を案じて、翌日午前11時ごろ木刀を持って家を出た。ここで騒動を起し警察沙汰になれば粟屋君は初犯ということで助かるが、ヤーさんは河原から永久追放になるだろうという筋書きであった。ところがこの日3本目を要求したところ素直に「ハイ」という。ここで「昨日は3本目は駄目だったのに今日はいいのか」と挑発した。すると「私も頂いてよろしいでしょうか」と極めて低姿勢、バスの内まで粟屋君を誘って呑み始めた。ヤーさんが突然「昭和維新の歌」を歌い出した。3番ぐらいになるとシドロモドロになる。粟屋君はあと4番から10番まで歌い上げた。これにはヤーさんは「お見逸れしました」と頭を下げた。二人は忽ち打ち解けた。聞けば大学では空手をやり、卒業後暴力団に入り、ヤクザ家業をしていたが、1年前盃を返して手下全員を正業につかせ、自分か河原人足になったと言う。ケンカ相手すとなればかなりのやり手であった。だが、主客は転倒している。粟屋君はヤーさんに入れ墨はお客には絶対見せないこと、河原にゴミ箱を置いて河原の美化に尽くすことを提案して別れた。後日河原に行ってみると、大きなポリバケツが7、8個あちらこちらに置いてあり、「川をきれいにしましょう。ゴミは護美バケツに」という立て札があった。また、夏でも手首まである長袖姿であった。ヤーさんは粟屋君との約束を守った。「となかい」第8号(平成9年1月)に粟屋君が「ケンカのすすめ」を書いている。その中で「イジメられて自殺する子供もいる。首吊りとかビルの屋上から飛び降りる勇気があるのなら、何故イジメのボスの家に火を放ち自分はその内に飛び込んで焼死してやるぐらいの知恵が浮かばないのか」といい、かなり過激な発言をしている。「もっと根本的な”教育改革”に乗り出さないと二十一世紀の日本は危ない」と心配する。神式で執り行われた告別式では旧制高校の寮歌のCDが流されたが、いつまでも若さと侠気を失わなかった粟屋哲郎君にふさわしかった。

(柳 路夫)

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