2006年(平成18年)5月1日号

No.322

銀座一丁目新聞

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追悼録(237)

「小川一郎君、長崎原爆記年館に登録される」

  大連2中の同級生小川一郎君は「校友会名簿」(1999年版)には空欄となっている。私たち同級生は長崎医専に在学中原爆死したと聞いていた。4月に大阪で開かれた関西の集まりに顔を出した。小川君の姉・山田妙子さんもきていた。その席上、小川君の原爆死が「国立長崎原爆死没者追悼平和記念館」に昨年9月5日、正式に登録されたのを知った。それによると、死没年月日は昭和20年8月12日である。場所は同市阪本町、長崎医科大学。原爆が落ちてから3日目である。負傷者を手当中になくなったという。頂いた妙子さんのエッセイには三郎君との思い出が綴られている。大連静ケ浦海岸の香月台に住んでいたころの話である。冬休みのある日、三郎君と一緒に嶺甲湾傍の沼でスケート遊びをした。帰宅しようとしたところ、満潮時で狭い磯浜には潮がさし崖が海岸まで迫っているので海岸沿いに帰れなくなった。山を越えることにしたが山は積雪が20センチばかりあり雪の表面はアイスバーンになっており苦労して山頂についた時にはすっかり日も暮れたいた。疲労と空腹と寒さのためうずくまってしまった妙子さんを三郎君が風の当たらない窪地まで連れて行ってくれた。一人で道を探しにいった三郎君の後姿を見て、日頃から末っ子で甘やかされ、不器用で、夢見たいな事ばかり言っている子だと思っていたが、このときばかりは頼もうしいと思った。真っ暗な7時近くにやっと我が家にたどり着いたが、両親から「自然を侮るな」と大目玉を食らったという。
 洋品店を営んでいた父親は昭和18年8月22日、ロシア語で「制空権を確保しなければ・・・」といって死んだそうである。
 毎日新聞の草壁久四郎さん(故人)は当時、爆心地に近い長崎支局の記者で、被爆した長崎の市内の取材に当たった。「爆心地に入り無数の死体を乗り越えてゆく時に、死んでいると思っていた被爆者の焼け爛れた手がゲートルを巻いた草壁さんの足に何度も触った感触を忘れる事が出来ない」と草壁さんは生前語っていたが、足に触った被爆者の手は何を語りたかったのか。「無念」。「にんげんをかえせ」。「?」。小川三郎君は・・・

(柳 路夫)

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