2月23日(旧暦1月26日) 木曜日 くもりのち晴
自省抄を発送してもらうよう頼み、メモを焼却に廻して十日たつ。心の翳の部分がとれたような爽やかさというか、広がりが生まれた。よかった。捨ててこそと思いながら、いざとなれば書棚のわずかな本でも思い切れない。
捨てて捨てての志向の芯は、用箋もペンも要なきものとする。にもかかわらず要なきペンをこうして動かして綴るのは、何につきうごかされてだろうか。
孤独感か。最も佳しとし最も尊しとし、恵与とする孤独感の仲間欲り心か、促しごころか。どうでもいい。とにかく動のこころを光とし、影の静をも希望の領域に包含しようとする今の気持ちにしたがおう。
思いは妙子先生へ、礼子先生へ翔ぶ。
妙子先生の端麗な美貌と優秀な頭脳が脳梗塞により変容、変化した。礼子先生の歩行も一年前とうって変わって鈍々とは信じがたいけれど、教え子の満子さんがお見舞い帰りに告げていった事ゆえ、胸が疼こうが滂沱うるうるになろうが、受け容れる他はない。とはいえ、悄然とした気持ちになるのは、長年の愛顧を得てきた先輩お二人の現状がいたましくて、先導者を見失ったような迷いの内にあるからであろう。
妙子先生は家刀自の座から急襲の病ゆえに、礼子先生は自然におとずれた意欲減退のために読書欲喪失(!?)、信じがたい両先輩の変容である。疾病は人格をかえた。脳に起きた異変は矜持を失わせた。病変は自恃自尊の大切な人間の条件の要素を失わしめた。
寂しくてならぬ。誰に告げようもない寂寥である。
いや、誰に告げなくても自省抄がある。用箋にむかって心のたけを綴ろうとすれば綴りうる。どんなに湯茶が欲しかろうが渇こうが、介護士さんたちの仕事の進捗状況を窺えば抑制できる。この実態の私をよろこぼう。
妙子先輩八十八歳、誕生日がくれば一歳加わる。お若い。疾病が障害しているにしてもお若い。礼子先輩は私より一歳上だから、八十三におなりか。
お二人の頭脳よ甦えられよ。ゆたかな情感よ甦えられよ。恩愛の、あの篤実のかぎりなさは泉の湧くごとし、あれほどまでに後輩私に情愛をそそいで下さった方々があったろうか。たとえ知力体力が別人のように変わられようと、それゆえ一層、大切に思っていきたい。生老病死のくり返す人間の世の中、その中の一人が私、そして礼子先生、妙子先生。 ふしぎなご縁よ。本当に摩訶不思議の絆よ。
照るような輝きの美貌をほこることなく自負することなく、つつましやかに生きてこられ、現在はいっそう厄介人間とご自分を貶しめて孤立を深めていく……どうぞご気力ご自励なさいませよ! そしてお子お孫らよ、先輩方が精神衰えられぬよう、惜しみない助言、見舞い再々をお与えなさいますよう、祈らずにいられない。
お耳が疎いからお喋りできないのは残念だが、ショートステイの折りにはお会いしお話しできる事を喜ぼう。
母上よ。今夜もお待ちいたします。
いつもの夜のように、憶えている限りのご詠歌をはじめ詩歌や片々たる聖賢のことばを誘いこんでは、記憶のほどを確かめることでしょう。楽しみの夜の学習時間ですよ。
先日の祭礼「裸ん行」の歌二首、昨夜やっと決まりました。
きさらぎや裸ん行の男衆の掛声走る霙宵闇
あからむく神酒のおもての燦らめきや裸ん行に拍手たてまつる
3月6日(旧暦2月7日) 月曜日 雨
今日は啓蟄。虫たちぞろぞろ這い出る陽気の候。
母は虫が嫌いだった。嫌いといっても逃げるなどは以ての外、蛇が怖くてならない私にこう言ったもの、「堀ばちょろちょろ渡りよるとは愛らしかない」。
蛇は向こうから逃げて行くもの、と言われても怖くてならなかった。庭の金柑子の手前に蛇がとぐろを巻き、赤い舌をちろちろのぞかせているときなど、ぎょっとして釜屋に逃げ込んだものだ。ザボンの老木の下にはトカゲが何匹も蠢いていた。日向ぼっこをしていたのかも知れない。ザボンは酸っぱい大きな円錐形をしていて、村なかでも他に見かけることはなかったが、原種の仲間ではなかったろうか。蔵の隅の、桶の糠の中に貯蔵してあるのを一個また一個と私一人が食べていたような気がする。
生まれた家はなつかしい。茣蓙屋の稼業もそう。
一期一会の人生。逢うときが一期よ。
「老生不定ち昔から言うてある。逢うた時が暇乞(いとまげ)じゃん」
母の声が耳元に聞こえる。
午後、先達て求めた『葉薊館雑記』を再読。宮英子先生の筆は冴えざえと輝く。
宮柊二先生には婚家にも自宅にも、療養先の天草にも何度かお立ち寄りただいて忘れがたい。「五足のわらぢ」の跡をお訪ねの旅の途次か、阿蘇の大会の折りだったか。清く凛々とお元気なお顔もおすがたも、今いま事として懐かしい。
私は歌を止めた。
投稿もむろんやめた。
歌人たちの集まりを純粋集団と見なす私の甘っちょろい考え方に気付いた。そんな拠り処のあろうはずはないのに。でも、歌作りにいのちを賭けた真剣な真摯な人にふれることができた。
等々力亜紀子さんもその一人。寺谷真紀さんもその一人。日野原典子さんはお名前通り典雅で柔和なお人柄が面にかおりでていた。田谷鏡さんは、ものしずかな深い味わいを底ぶかく秘めている印象だった。
宮先生とのご縁の始まりは、私の『婦人公論』に投稿の一首。
健やかな夫欲し以前の汝ほしと酒乱の夫の狂ひて哭くも
を二席におとり頂いたことによる。
地方誌にだしたとき、この歌が「健やかな妻欲しもとの妻欲しと夫酔ひ泣けどわれ如何せん」として掲載され、私は違う、私の歌の心とは違うと内心怒り、『婦人公論』に投稿した。一字一句訂正されぬまま入選歌となった。
『コスモス』誌を初めて知り、選者・宮柊二先生を存じ上げた事で入会した。
記憶に残る歌は、隣家の石屋の肇君が蚕豆笛を鳴らしてみせた情景を詠んだ
蚕豆の田に蚕豆の葉鳴らす天地にひとりなるごと少年立ちて
ほろびゆくもののみのもつ哀しさか更けゆく夜にゴーチェ思へり
は、椿姫に感動ただならず憑かれたような心情で歌ったものだ。
天草はかなしき島ぞ耕して天に至れば畏きろかも
これは天草に移った当初、透明ガラス戸を透かして真向こう小高い丘が頂まで耕され、そこに働く人の姿を目にしたときのものである。
杳い昔々の、それでも忘れがたい歌……歌からはなれて久しいけれど、投稿していた頃の思い出は、私の折々のこころを柔らかにする。それは現世讃歌であり人間讃歌であり、山川草木いっさいがっさいをひっくるめてのものだ。
きさらぎや歌詠まぬ人となりにけり
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