2006年(平成18年)4月1日号

No.319

銀座一丁目新聞

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追悼録(234)

「新聞は人を愛し社会を愛し国を愛す」

  毎日新聞の大先輩の名物男、狩野近雄さん(昭和52年3月10日死去、享年67歳)を書く。毎日の同期生、吉田掟二君から狩野さんの著書「記者とその世界」(インテリジェンスカウンセル編集制作・昭和55年10月1日発行)を頂いて若き日の狩野さんを知ったからである。入社は昭和7年4月、5月15日、5・15事件が起きた日、山形通信部に赴任する。お土産は50本ほどの藤蔭静枝師匠の手拭いであった。早稲田時代、日本舞踊の会の演出をやり藤蔭静枝さんを知っていた。山形の花柳界は藤蔭派が大きな力をしめている。藤蔭会の後援者の澤渡尚之助さんが大歓迎。その晩は山形の芸者總上げのドンチャン騒ぎであった。お師匠さんの手拭いの効果は抜群であった。その晩で狩野近雄の名前は知れ渡ってしまった。新聞記者にとって花柳界は重要なネタ場である。狩野記者も二人の芸者の機転で昭和8年11月、全国に先駆けて県内の政友会と民政党が政党を解消する話会いの会場となった座敷の戸棚にもぐりこみ、県内の両政党の幹部の話を全部聞いて特種をものにした。陸士の同期生で、伊勢丹の副社長となった服部友康君の話では地方で店を出しても花柳界は無視できない場所であったという。服部君はここを大事にしていろいろ助けられたといっていた。
 学芸部記者のときに、2・26事件に会う。愛宕山にあったNHKの放送局を決起部隊が占拠しなかったり、陸軍大臣の官邸に案内しろとカメラマンをつかまえて聞いたりする準備不十分ではこのクーゲータは駄目ですと学芸部長に進言するあたりはさすがだと思う。このとき、みん なが赤伝を書いて取材費名目の前借をしたという懐かしい話が出てくる。赤伝といっても今の記者にはわからないであろう。
 狩野さんは見出しをつけるのは天才的なひらめきがあった。これは整理部記者たちが一様に認めるところである。「極東国際軍事裁判」を今では「東京裁判」というが当たり前のようになっているが、名付け親は、この裁判の取材陣のキャップであった狩野さんである。東京裁判の取材を通じて狩野さんが得た結論は「物事の決定に際してはやはり責任あるものがいうべき時にいっておかねばならない」ということであった。
 狩野さんが整理部に行くのは学芸部時代、デスクの永戸俊雄さんを殴ったためである。狩野さんにこのような一面があるとは知らなかった。永戸デスクはパリ特派員時代、ルネ・クレールを日本に紹介したり、マルセル・パニョルの翻訳本を出したり抜群の能力のある記者であった。非は永戸さんにあったが狩野さんは整理部に飛ばされた。ここで「仕事」と「人間」を知ったといっている。「記者としての能力を評価する基準は何よりも仕事そのものであり、噂さとか評判は仕事に関係ない。出てくる原稿が勝負だから原稿を通じて、人物を公平に見る事ができた」なるほどと思う。狩野さんは「できる記者」を粗末にしなかった。だからこそ毎日新聞がベトナム戦争を大きく取り上げた「泥と炎のインドシナ」の連載記事が生まれ東京オリンッピク報道も成華を上げえたわけである。

(柳 路夫)

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