2006年(平成18年)4月1日号

No.319

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自省抄(54)

池上三重子

 2006年2月4日(旧暦1月7日)土曜日 早朝雪の後晴

  降る雪や明治は遠くなりにけり
 凩のはてはありけり海の音
 この二句は無風雅の私にも感銘を誘う。
 草田男も言水も大自然に目を耳をかたむけさせてくれる。
 今朝の降る雪も食堂の出っ張りの屋根瓦に積む雪も嬉しかった。昨日三時すぎ頃か、俄に身が冷え慌てて咽頭と肩にストールを巻いてもらったのだが、あれが雪の前触れだったのだ。忝なし天の便り、神の使者。
 早出遅出おのおの二人ずつの出勤者。そんな状態は初めてではないし、さもあらんと情勢判断するが、数の多少は、士気にも利用者にも豊かならぬ気配とならざるを得まい、と私は利用者であるより勤務側の心ある人にでもなったような感慨を催す。
 郷に入っては郷に従えよ、眺めつつ存在しつつ、思考めぐらしつつ、これもまた生の証しのひとときではある。
 今日は立春! ここでは節分の豆撒きに大豆ではなくて、小袋に入った赤ちゃんボーロで代用させているのには苦笑した。昔ながらの行事には潤され癒され、現身の苦から解放されるのだが、がっかりの豆撒きではあった。
 節分の日の立役者は父であった。釜屋の小さな竈「ふくど」に磨かれた茶釜がかかり、父が「火起こし」とよんだ火吹竹の青い新竹作りを初卸しする。一年はたらいた労をねぎらいつつ、古い火吹竹を燃やしている光景がなつかしい。このとき、豆殻と「ボッボ」の枝木とを一緒にくべるのだが、ボッボは燃すとボッボッと音を立てるのでこう呼んでいた木だった。豆殻もボッボも鬼を追い出す追儺の音の加勢に焚いたのだろう。煎り大豆を撒くのも同じ理か。それとも豆にも意味があるのであろうか。
 福は内 鬼は外
 力いっぱい父が声を励まして豆を撒く。
 撒かれた豆を拾ってたべる童私がいる。豆を撒くのはお座敷と御前のみで、寝所にも北の寝所にも、帳場や板の間にもどうして撒かなかったのだろうか。私の記憶違いではなさそうだが。
 そういえば蔵の仕事場にも撒かなかった。
 蔵の様子が目に浮かぶ。父が母が、姉が兄が嫂が男衆が、黙々と己がじしの仕事に一心不乱の様相を見せていた。姉は母屋で縫物の時もあったが、みんなみんな今は昔の物語り。しきたりを守ってくれた両親のお陰で私は仰臥日夜の自分を忘却の彼方に、心ゆたかに心活き活きと生きている。感恩の歌のままに。
 内村寮母さんは畑作りの話を聞かせてもらえる唯一のひとだが、そういえば、このところ、かつお菜の茎がぐんと伸びたという。鰹菜とは海の幸、鰹にも匹敵するという意味だろうか。
 鰹蕪、と私は父母の言を耳に育った。父母にとって美味しいその風味が私には苦手、とうとう馴染めずに終わった。春菊の濃密な香気は食を妨げるほどではなかったけれど。
 畑作りが兄の渡満後、商売を止めねばならなかった父の唯一の仕事となり、神経過敏の凝り性はそこに全力投球、トマト以外は豊富な産物を生み他家へ配るほどだった。
 茄子、瓜、胡瓜、菓子瓜、三度豆、ささげ、南京豆、莢豌豆と見事な生りようが採る私の姿ともども浮かぶ。そうそう、婚家にみやげに持ち帰ったとき、「買ってきたろ」といわれた水芋も! なるほど、舅の作物は俄百姓ゆえ、しょぼついて哀れだった。
 父上よ、ありがとうと一言もいうことなく、その気もなかったとは信じられないような気持ちだが、そんな私をごめんなさい。「びしゃっか」とあなたは何の話のついでにか仰言った。母上は「そんかこつぁ無か」と例の微笑を湛えた面持ちで否定された。
 今に偲えば父上の言葉、つまり年齢にふさわしからぬ稚さ、は当を得た評といえましょう。私の芯の微弱ぶりは確かに当時の私のずばりを自認させます。
 聡明怜悧の母、八十点優くらいの父。不学の母、柳川城内の学校へ行かされた商家の父。現在の私は「当時の父と母と、対話したい」という切なる想いにかられる。
 初ちゃん来室。
 大根卸しと白菜のお漬物はおさとからの頂き物。明日はご両親を連れて裏阿蘇の「たるたま温泉」行きとか。できる時にいっぱいいっぱいの孝行が可能なことからも、家業の順調さを知ることができる。有難い、暖かい雰囲気を沁みる思いで祝福し、慚愧する。
 慚愧は返す何なく見送った生涯的な感情である。
 父上よ、母上よ、ごめんなさい。
 外は寒いですよ、と力こめて初ちゃん。目をまんまるにして。「たるたま」に行きましたねえ、と忘れかけていた追憶をよびもどしてくれる。昭和四十一、二年のことだったろうか。
 知りあいの指圧師の思いがけない来訪は、新しい分野拡張の念願かかるものと後日知ることになるが、私の予感通りリュウマチ疾患は治らなかった。氏は「手当て療法」は万病に利くと過信していたのだ。
 一関節一関節が病んで腫れて痛くて、その発熱を伴う症状が鎮まるときは悉く機能停止、あとは変形の度を進行させていくだけ。初ちゃんたちとの「たるたま」行きは、そんな状態のなかだった。
 私の芯の純は矜持ひそかなものだが、かたちとなって他を利する何なしを想えば、うっと胸が詰まり涙房からあふれる涙……私のみが知る悲哀だ。悲哀は禊よ、みそぎよと説ききかせている私に気付く。
 私の生はこのためにある。
 慚愧と懴悔と、そして四方八方への感謝がしめくくる。希わぬ生はこのためにあるのだ。尽くしたい、してあげたいと想う思いは、かたちを取ることが大方は駄目なのだ。
 母上よ、六時です。ペンを擱きます。
 今夜も夢見にお待ちしますね。



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