2006年(平成18年)3月1日号

No.316

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追悼録(231)

「福田潔区隊長を偲ぶ」

  人間はまことにずぼらである。気になっているのだがそのうちに調べようと思いながら月日がたってしまう。昭和18年4月入校した陸軍予科士官学校で薫陶を受けた福田潔区隊長は忘れがたい人であった。人生80年、戦後60年の昨年秋、23中隊1区隊史の作成を思い立って調べてみてその消息がやっとわかった。ここで福田区隊長へ60年遅れの弔辞を捧げる。

 福田潔区隊長殿。誠に申し訳ありません。不肖の部下であります。お許しください。平成17年11月18日になって長男の浩人さんのお手紙で区隊長が昭和21年12月22日山口の陸軍病院で戦病死されたことを知りました。それまでは福田区隊長は空挺部隊に行かれ沖縄で戦病死されたと聞いておりました。今回23中隊1区隊の「留魂録」を出すに当たり初めて確認されました。 
 航空へ転科された福田潔区隊長とどんのような別れをしたのか残念ながら覚えておりません。区隊長への寄せ書きを見ると昭和19年1月10日のようであります。戦歴書にもその日付で宇都宮陸軍飛行学校付きを命ずるとあります。昭和18年4月、入校した私たちにとって区隊長に薫陶を受けたのは僅か一年足らずでありました。演習では随所で厳しさを見せられましたが、温厚で滋味溢れた区隊長でありました。私との関わりの中で福田区隊長を偲びたいと思います。
 寄せ書きに私は書きました。
「欣仰嵐赤松(嵐の赤松を欣仰す)
 不撓清々爽(撓まず清々として爽やかなり)
  別師似嵐男(別るる師は嵐の男に似たり)
  如松大奮闘」(松の如く大奮闘せん)
 今読んでみると意味がよくわかりません。区隊長はさぞお困りになられたでしょう。区隊長との別れは突然嵐にあった感じして東練兵場に亭々としてそびえていた赤松にこと寄せて区隊長の航空での活躍をご期待申し上げしたものです。お会いできればそう答えるでしょう。意のあるところを諒としてください。韻はそろえたつもりです。「航空身体検査後の区隊長殿の御注意『牧内は鈍くないよ』の励ましを肝に銘じてがんばります」ともあります。
 思い出しました。航空決戦下の時、兵科志望で私は第一志望「輜重」第二志望「航空」第三志望「歩兵」としました。区隊長は「なぜ輜重を志望するか」と質問された。「大東亜戦争は補給戦であります。私のような優秀な男が一人ぐらい輜重にいってもよいでしょう」「何を言っている。お前が優秀なのは中国語と歴史だけだ。今お国が必要としている航空へゆけ」「私は動作が鈍いので航空には向いておりません」「お前は鈍くないよ」私は仕方なく第一志望「航空」第二志望「歩兵」第三志望「輜重」に書き換えて出し直しました。私の「輜重」第一志望を聞いた吉田昇(航空・故人)が私に「お前は軟弱だ」と切磋琢磨した。戦後その吉田君と会えなかったのは残念であります。間もなく福田区隊長は航空へ転科された。同期生の半数の1600名が航空に決まったのは昭和19年2月22日でした。区隊から9名が航空へ行きました。その年の10月、地上兵科が卒業しました。結局私は歩兵となりました。
 忘れもしません。区隊長は覚えておられますか。昭和18年10月31日の日曜でした。私は東京には知り合いがないので日曜日は馬術をして過ごすようにしておりました。落馬を三度もしており、馬術の練習をしようと考えたからです。その日は余りご無沙汰をしてもいけないと思いたち、保証人の河本幸村さんの目黒の家へゆきました。すると中野正剛の葬式があるからと一緒にゆくことになりました。青山斎場に着いてびっくりしました。憲兵がたくさんいるではありませんか。この年の1月、朝日新聞に掲載した「戦時宰相論」で東条英機首相の忌諱にふれた中野正剛は10月25日東京憲兵隊に反軍罪で取り調べを受けたが26日釈放され、27日午前零時自宅二階で自刃したのです。葬儀委員長は友人の緒方竹虎でした。大連2中時代大連振東學社に寄宿していた私は振東學社の総裁をしていた中野正剛の謦咳にも接したこともある。保証人の河本さんも中野正剛とはごく親しい仲でした。覚悟を決めて葬儀に参列しました。帰隊後、区隊長に事故報告しました。報告しているうち区隊長は振東學社を作った漢学者、金子雪斎に興味を持たれどんな人物かと聞かれた。「国家 社会主義を唱えた人です」「国家社会主義とはどんな主義か」「私有財産をある程度制限して国家が持つということです」「それでは共産主義と変わらないではないか」「違います。ある程度の私有を認めるのです。財閥の横暴を考えればやむを得ないのではないでしょうか」こんな問答が交わされました。その後区隊長の私に対する態度は何ら変わることはありませんでした。金子雪斎は大正時代、大連で新聞社を経営しており、中野正剛も新聞記者であったことを考えれば私が戦後新聞記者になったのはそれなりの因縁があるように思います。
 福田区隊長殿。今日あるは区隊長のおかげであります。時期が短くともその人が与えた思いは深く残るものであります。有り難うございました。

(柳 路夫)

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