2006年(平成18年)3月1日号

No.316

銀座一丁目新聞

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北海道物語
(30)

「中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館」

−宮崎 徹−

  旭川の自衛隊駐屯地の裏手、井上靖記念館の近くに彫刻家中原悌二郎の美術館がある。この建物は写真の様な白亜の洋風建築物で、当初からの美術館ではなく、明治35年陸軍第七師団の将校クラブ偕行社として、大成建設の前身、大倉組の施工。爾後百余年、風雪の中で数奇な運命を経て来た。
 明治初期、開発途上の北海道を御覧のため行幸された明治天皇は、札幌とその周辺以南を巡幸されて、それから奥地にはお出ましになられず、明治44年皇太子殿下、後の大正天皇が皇室として初めて旭川に行啓されたが、その時の御宿舎が此の偕行社だった。
 明治35年から、皇太子は全国を最初は微行の形式で旅行された。地理・歴史の見学を目的とされ、従者も少なく、公園の一人歩きや普通列車に乗られたりして振る舞われたと言われている。国威の揚がった日露戦争以後は、御健康がすぐれなくなられた明治天皇の名代として、地方巡啓をなされるようになり、道庁の奏請による広域の本道巡幸は、当時の道民には記念すべき待望の慶事として奉迎された。
 お召しの軍艦で8月20日函館着、9月12日室蘭発の御行程で、札幌を経て旭川から釧路、帯広、更に旭川を経て苫小牧、室蘭と当地を御巡覧いただいた。興味を持たれる方は、北海道庁編の「行幸・行啓史」、旭川市の「旭川市史稿」をおすすめしたい。
 当時の上原第七師団長は函館にお迎え申し上げ、お供の上8月30日お召し列車で旭川に到着され、偕行社にお入りになった。開村後二十三年、井上靖さんの詩作にならえば23才の青年期旭川の民情を御覧いただくので、師団も住民も大歓迎であった。師団長の上原勇作中将は、後年長い軍歴史中でも二人だけの陸軍の最高三ポスト(つまり陸軍大臣、参謀総長、教育総監)を歴任した人物で、陸軍工兵の父と云われ元帥になられた方である。今の人たちには俳優上原謙の祖父、加山雄三の曾祖父と聞けば、旧史も身近に思えるだろう。師団諸兵の連合訓練を親しく御高覧あそばされ、また当時の上川中学校、上川高女、神谷酒造等の民間施設も御覧になられた。
 明治と昭和という近代史の狭間で、大正は存在感に乏しく、大正天皇についても御健康のこともあってやや不敬な言われ方があったりしている。しかし近年、原武史氏を初めとして大正天皇の研究が進められ、幼少期の相次ぐ御病気から脱却して健康を回復され、側室を置かれず貞明皇后との間に四皇子を設けられた家庭的な父君であり、初期の地方巡啓の際は、地方の人達との会話をたのしみ、多弁であったと云われる程人間味を持たれておられたという。偕行社の三日のおくつろぎの際は、如何にあらせられたかを想像すると、ほほ笑ましくも拝される。現人神の天皇に即位される前の短い安らかな時期に、旭川をどう御覧になられたのだろう。
 戦争が終わって日本を占領した進駐軍は、此の建物をアメリカ軍の将校クラブとして使用した。米軍式に内部は改装された。講和条約の発効となって米兵が引き揚げると、建物は旭川市に払い下げになり、学校や官衛の職員の仮住居となって老朽の度を深めた。
 昭和42年旭川で開催の日本ボーイスカウト全国大会に、札幌から町村金五知事が来旭した。此の時旭川市長が案内して、旧偕行社の由来と復元に就てを話し合い、道の支援を得て復旧することになり、43年12月市立博物館として活用し始めたのである。その後新しい博物館が別の場所に新築されて移転した後、此の建物の風格と雰囲気とを残す改築工事を行った上、「中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館」として使われる事となったのである。
 中原悌二郎の名を知る人は旭川でも当時は美術関係者以外は少なかったが、近代の彫刻史の中では欠かせない存在である。中原は釧路で生まれ、幼にして旭川に来たが、17才で画家を志して上京、32才で夭折するまでに不朽の彫刻作品を後世に残した人である。
 カリーライスで有名な新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・黒光夫妻は異色の商人で、英領インドの独立運動で亡命したビハリ・ボースをかくまい、息女を嫁がせてその仕事を扶け、ボースがこれまでの日本風とは異なるインド風カリーライスを教え伝えた事でも知られるが、夫妻は西洋美術の研究に苦労する若い芸術家のパトロンとして功績があり、今でも中村屋の2階には当時の彼等と相馬一家のサロンでの写真が飾られている。和服姿の中原悌二郎を始め萩原守衛(碌山)、中村彝(ツネ)、平櫛田中など、ヨーロッパの美術に学ぼうとする若い才能の青年と、貧しい彼等のスポンサーとなり、時にはモデルにも成った相馬家の人達の気持ちが伝わる写真である。ロダンの弟子としてパリに学んだ萩原の魅力で、中原は彫刻に転じたが、喀血した後、保養のため一時旭川に帰り、肖像画を売って資金を得たりした。旭川の自然と東京の友人達との切磋とが彼の芸術を高めたと云われるが惜しいことには32才で亡くなった。
 中原悌二郎の作品は、彼の親友平櫛田中や、加藤顕清から贈られたものを中心に合計12点が美術館の顔として常設展示されている。更にかねてから芸術に造詣の深い五十嵐市長は中原を顕賞し、日本の彫刻界への功績を記念するため「中原悌二郎賞」を設け、彼の生前の友人の彫刻家やその人達の推す美術評論家等を選者として、毎年過去一年間に発表された日本人作家の作品の中から一点に中原悌二郎賞を贈っている、これまでに全国から、具象のブロンズ作品だけでなくテラコッタ、木彫、ジュラルミン等々、彫刻の歴史を示す受賞作群が、所蔵陳列されている。この美術館に足を運ぶと、旭川の印象に一つの新しさと深さが加わるであろう。
 此の建物は今や百年の齢を保つ旭川唯一の建築物となろうとしている。百年の間には全く性格の異なる多くの人達が、白亜の玄関を通り去った。建物に心が有りとすれば、その人達の哀歓を語るだろう。地震の惧れの少ない旭川であるから、この記念館がいつまでも残って、旭川の歴史を伝えつづけて欲しいものである。

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