2006年(平成18年)3月1日号

No.316

銀座一丁目新聞

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花ある風景(230)

並木 徹

毎日新聞記者の根性を見る

 素晴らしい本が出た。毎日新聞の社会部長であった山本祐司君の著書「毎日新聞社会部」(河出書房新社)である。プロローグは劇的である。「松川事件」の立役者、倉島康が登場する。死刑4人、無期懲役2人、懲役10年を超える被告6人全員を無罪とする「諏訪メモ」をスクープ報道した記者である。獄中の被告や家族から神様と思われているというからすごい。「諏訪メモ」がはじめは県版に掲載されたとは知らなかった。下山事件では平正一デスクと察回り記者高橋久勝の活躍が紹介される。下山事件は明らかに自殺であった。毎日新聞に政府の圧力がかかったり、最後に警視庁の自殺の公式発表がGHQの指示で中止される事が明らかにされる。ほかの新聞が報じた他殺説は誤りである。このことがよくわかっていない記者が今なお大勢いるのは嘆かわしい。指揮権が発動された「造船疑獄」。私は先輩記者、森丘秀雄、三木正たちの取材振りを拝見して疑獄取材のイロハを勉強した。吉田茂首相に指揮権発動を進言した知恵者を松阪広政とするのはこの本が始めてである。事件から10数年後に森浩一記者(のち社会部長)と一緒に取材した結論である。警視庁記者クラブでは本書の通り佐々木武惟キャップ時代が事件記者の黄金時代である。「60年安保闘争事件」は忘れがたい。時の社会部長、杉浦克己、当番デスク、三木正であった。私は第二社会面のまとめをやらされた。上層部から杉浦社会部長は怒られたかも知れないが、毎日の紙面は当夜のデモ隊と警官隊の動きを忠実に反映したものである。だからこそこの紙面を読んで36年の毎日新聞には優秀な受験生が殺到し、採用された、著者もその一人であった。山本 祐司が静岡支局で名物男、土屋夏彦にしごかれたのはよいことであった。「自分の旗を揚げよ」といった土屋記者は確かに『生涯の師』である。東京オリンピックでは著者は体操を担当。会場で偶然に行方不明の父と会い、オリンピックの組織委員会の一員というので、いくつかの特ダネをものにする。彼の父が大陸浪人とは満州育ちの私には懐かしい。著者はいい上司に恵まれた。石谷竜生記者もその一人(社会部長)。裁判所のキャップの時、こう教える。「事件はあらゆる可能性を考えなければダメだ。様々な仮説をつくる。もっともありそうもない仮説が現実になった時、特ダネの威力は凄まじいものになる。逆転の仮説だ」おかげで田中彰治代議士の議員辞職の特ダネを書く。5年間の裁判所クラブ生活を終えて山本は遊軍記者になる。外務省機密漏洩事件では社会部内の騒然とした雰囲気が良く出ている。毎日は『知る権利キャンペン』を張ったが、山本は自重論であった。私もこれに賛成する。「ニュースソースを秘匿できなかった新聞が知る権利を主張するのはナンセンスである」今でもそう思っている。1973年山本はその手腕を買われて裁判所クラブのキャップになり西山事件の裁判を担当する。さらにロッキード事件と対決する。山本が重視したのは『分析、調査、展開』であった。それに石谷直伝の『逆転の仮説』であった。ロッキード事件ではそれが遺憾なく発揮された。毎日だけが田中角栄の逮捕を予告する記事を書いたがその前夜の取材陣の一連の動きはドラマである。
 全編を通じて同期の杉山康之助のことがよく出てくる。酒をこよなく愛した名文家であった。山本とはよく酒を酌み交わす。「酒はよいアイデアを生む」といって飲み屋に繰り込んだ。同僚のデスク水野順右の娘さん(当時小学校3年生)に宛てた年賀状が『御意見無用』の杉山らしくていい。「よのなかは、まっくらやみです。おとなはみんな、ふしあわせなので、せめてこどもは、しあわせにくらしましょう。あそびは。こどものいのちです。あそんで、あそんでくららしましょう。しょうこちあん、ことしもたのしく」その杉山は1979年3月15日夜、スナックの二階の階段から落ちて不慮の死を遂げた。
 脳溢血で倒れさらに脳梗塞が加わって車いすが手ばなせない山本が児童文学を中心とした文学サークル「ルパン文芸」を主宰している傍ら、今回、時代背景も克明に描き、ときおりエピソードを織り込みながら事件から事件へと縦糸と横糸を名文で紡いでいるのは見事というほかない。

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