2006年(平成18年)1月10日号

No.311

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追悼録(226)

「現代アート「紐育空爆之図」」

  講談社から出ている読書人の雑誌「本」の表紙を見てびっくりした。一見してニューヨークとわかる大都市を無数の日の丸をつけた「ゼロ戦」が乱舞し、林立するビル群に間から煙と紅蓮が立ち上っている。表紙の裏側に「紐育空爆之図」(戦争RETUNS)1996とある。作者は1965年生まれの会田誠さんである。びっくりしたというのは昭和19年1月歩兵科から航空へ転科した福田潔区隊長への寄せ書きの中に「ワシントン爆撃の暁には是非私を連れて行ってください」と書き、日本の爆撃機が5機ワシントの高層ビル群を爆撃する図を素描したり、「区隊長のワシントン、ロンドン爆撃の日を待っています」と大都市が紅蓮の火に包まれその上空を日本の爆撃機が5機爆弾を落としている絵を添えた同期生がいたからである。
 会田さんが作品を発表したのは1996年(平成8年)。戦後51年立つ。そのとき会田さんの年齢は31歳である。しかもその5年後の9月11日にニューヨークでテロによって死者3,000人を出す惨劇が起きている。会田さんの絵は戦時中戦意高揚のために描かれた戦争画に触発されている。これらの戦争画は終戦後占領軍に接収されてアメリカに渡ったが、その後日本に返還された。高階秀爾さん(大原美術館館長)は「戦争中の熱狂とも戦後のイデオロギーとも無縁な会田誠が、徹底して醒めた眼で『帰ってきた戦争画』を受け止め、それに触発されて生み出した痛烈壮麗なパロディである』と評している。この絵には『ゼロ戦』が8の字に乱舞している。『ゼロ戦』は世界中に知られた名戦闘機である。大東亞戦争の緒戦縦横無尽に活躍し敵を畏怖させた。ゼロ戦が登場したのは昭和15年7月である。正式名称は「零式」艦上戦闘機である。戦いが進むに連れ名機も老い、戦局も傾き、最後は250キロ爆弾を積み特攻機となり、多くの若者達が祖国に殉じた。総生産機数1万430機だったという。
 芸術家の想像力はすごいと思う。予見性もある。六曲1隻の屏風に描かれた空爆の絵は自由・民主主義を世界に広めようと「力」を振うアメリカへの警鐘とも取れる。事実「空爆之図」が予知したかのごとく5年後の2001年に9・11事件が起きた。アメリカを畏怖させた「ゼロ戦」を生み出した日本がいまやアメリカの同盟国となり、イラク復興支援に協力している歴史の変転ぶりは世の栄枯盛衰を現す。会田さんについて高階さんは「鋭い批判精神を背後に秘めながら、絶えずラディカルに新しい表現を求め続ける男」という。今後もこの画家には注目していかねばならない。

(柳 路夫)

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