2006年(平成18年)1月10日号

No.311

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花ある風景(225)

並木 徹

元旦やおもへばさびし秋の暮

 寺井谷子さんが「自鳴鐘」1月号の卓話「子規の俳句」(一)の中で三橋鷹女の俳句「老いながら椿となって踊りけり」を取り上げて季語について論じている。ある結社の本を読んでいると、鷹女のこの句に季語が二つあるという新人の疑問に対して主要同人が『「椿」は「椿となって」ということは想像のものなのだから「椿」は春の季語ですが季語としては働きません』と答えているという。主要同人はこの句が「五十いくつの鷹女がある夜ダンスホールでダンスをしていて出来た句である」と知りながら「踊り」を秋の季語だという説明に寺井さんは疑問を呈している。私は寺井さんに軍配を上げる。
ここに鷹女の句を掲げる。
 凍鶴の真顔は真顔もて愛す
 冬蝶翔(た)つ童女の翳を感じては
 詩に痩せて二月渚をゆくわたし
 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

 ともかく季語は難しい。俳句に自然に溶け込んでいるのがベターだと思う。広辞苑によれば、季語とは「句の季節をを示すために読み込むように定められた語」とある。季題は「@季語に同じA俳句を作る詠題としての季語」とある。私の手元に大野雑草子が書いた『季題の本意』というメモがある。「季題とは日本人の伝統的季節感と情感によってセレクトされた季節の言葉、季(とき)の詞(ことば)で、俳句とは季題を詠む詩だと思っています。季題は俳句の生命であり、俳句に生命を与え一句を象徴する大きな機能・役割を持つものだと考えます」とある。さらに「『仏作って魂入れず』とか『画龍点睛』という言葉がありますが、季題はまさしく『魂』や『点睛』にあたるものだと思っています」と説明される。

 芭蕉にこんな句がある。「元日やおもへばさびし秋の暮」さきの主要同人はどのような説明をされるのだろうか。

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