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連載小説 ヒマラヤの虹(11) 峰森友人 作 出発前は想像もしなかった大山百合とのヒマラヤ・トレッキングを終えてニューヨークに帰った慶太が、時折オフィスの窓の外に目をやってヒマラヤの旅を振り返ると、エンパイヤーステートやクライスラーなどマンハッタン・シンボルのビルが、厳かに聳えるマチャプチャレやアンナプルナとダブって浮かび上がった。百合が稜線の風に吹かれながら、雄大なヒマラヤの眺望に浸る姿が現れる。ポカラで別れてから、約束された便りは一度もない。 ポカラ空港に見送りに来た百合は、 「春の異動とか予定している引っ越しとかでしばらくは落ち着きませんが、そのうち私の方からお便りをさせていただきます」 と言った。慶太にはその言葉を信じて待つ他はなかった。 百合との一週間の山の旅は、思い起こせばあっという間の出来事だった。朝も夜も、また昼食や休憩の時も実に多くのことを話し合った。にもかかわらず、本当に話すべきことは何も話していないような不思議な空虚さが慶太の心に広がりつつあった。 週が変わり、月が変わっても百合からの連絡はなかった。慶太はJTSに何度も連絡を取ろうとしては思いとどまった。いつしか慶太には焦りとも苛立ちともつかぬ気持ちが増幅されていった。 そんな心境にあった六月最後の週のある朝、かねてから旧知のJTSの女性解説委員山田里子が久しぶりのアメリカ取材を終えてニューヨークに寄ったと連絡してきた。最後の一日をニューヨークでの休養日に充てたのだという。慶太は里子をシーフードの昼食に誘った。ロサンゼルス、アトランタ、ワシントンと回って来た里子は、アメリカの経済の好調ぶりがどこに行ってもありありで、さすがに日本と底力が違うとしきりに感心した。ホームレスのうつろな姿がマンハッタンの街から姿を消したのもこの前に来た時との違いだと言った。ソフトシェルクラブの食事が終わってコーヒーになった時、慶太は何気なく、 「大山百合さんというディレクターをご存じですか」 と聞いた。 「ええ、もちろん知ってますわよ」 里子は当然だと言わんばかりに答えた。 「彼女は最近どのようなことをなさってますか」 慶太がこう聞いた時、里子の顔が急に険しくなった。 「佐竹さんは大山さんをよくご存じ?」 「いいえ、よくというほではなくて。以前に一度国連のことを話し合うことがあって」 「あら、それじゃ、ご存知ないんですね、大山さんが辞めたこと」 「辞めたって、JTSをですか?」 「そう、この春なんですけどね、辞めたのは」 百合がJTSを辞めた。それもこの春に。あまりの意外さに慶太は言葉に詰まった。 「それは知らなかった。特に連絡を取り合うということもなかったものですから」 慶太は自分が百合に会ったのは春、それも四月だったとはとても打ち明けることが出来なかった。 「春というと、いつごろなんでしょうか」 慶太は自分の驚きを懸命に押えて、努めて何気なく聞こうとしたが、声が上ずっているのが自分でも分かった。里子によると、百合は四月はじめ休暇を取っていたが、末になってバンコクから突然辞表を送ってきたのだという。 「大山さんは実は今年の春の異動でアメリカ総局駐在になる筆頭候補だったのよ。ところが二月末ごろ彼女がこの話しを断わったっていう噂が流れたの。私なんかは、女性が新しい領域を広げて行くことを願って、大山特派員の誕生を本当に楽しみにしていたんですけどね」 里子はじっとコーヒーカップの中をのぞき込んでしばらく考えていた。 「今度役員待遇のままアメリカ総局長になったのがご存知の岩崎宗太郎、JTSニュースショーの元看板キャスター。実は岩崎さんが大山さんを買っていて、アメリカに連れて来て大型企画をやらせるらしいと、もっぱらの噂だったの。実はこの人がニュースショーのキャスターの時、大山さんがその下で仕事をして、とっても評価された。岩崎さんは比較的若いにもかかわらず、今や報道部門の事実上の最高責任者のようなもので、今度もディレクターの大山さんを特派員にするという異例の人事になるところだったんですけどね」 里子はさらに、百合がこの春先に離婚したので、このため何か考えるところがあったのではないかということを局側が少々意図的に流している節があると言った。百合と親しくしていた同僚が大学の研究員をしている別れた夫に連絡をとったが、彼は別れてしまった後の事は自分に関係ないし、何も知らないって言っているのだそうだ。 「それで大山さんは東京にいるんですか」 「それも分からないの。昔勉強したことのあるロンドンに行ったのではないかという人もいるけど、それは推測ね」 「ジャーナリストというのは、やっぱり大胆で行動の予測不可能な不思議な人種ですね」 慶太は自分の頭が混乱してくるのを隠すために、さりげなく茶化してこの話しを切り上げようとした。 「まあ、自分とはまるで人種が違うようなことをおっしゃって。佐竹さんだって、突然せっかくの記者の地位を投げ出した同じ穴のむじなじゃありませんか」 里子は楽しそうに慶太を揶揄した。食後里子は、久しぶりに五番街をぶらぶらして、場合によれば近代美術館をのぞいてみると言って別れて行った。 百合は、女性のスターディレクターとして日本を代表するテレビ局の大幹部に能力を買われ、予定通りであれば、今ごろニューヨークに駐在して活動を始めているはずだった。その百合がヒマラヤ・トレッキングから帰った直後、辞表を出した。それもバンコクから。一体百合に何が起きたというのだろう。出会ってからトレッキングの終わりまでどこか陰りのあった百合の表情の奥には、やはり何か重大なことが隠されていたのだ。 このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 |