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小さな個人美術館の旅(36) 河井寛次郎記念館 星 瑠璃子(エッセイスト) 八坂神社の近くで用事をひとつすませて、鴨川に出た。河井寛次郎記念館は、かつて京焼きの里といわれた東山五条坂近くにある。こちらへ来れば遠回りになると分っているのだが、どうしても川にすいよせられてしまう。川のある町がどうしてこんなに好きなのだろう。北上川や中津川の流れる盛岡。犀川の金沢。利根川の前橋。対岸の建物が川面にくっきりと影を落としていたフィレンツェ……。数え上げたらきりがない。 川沿いの道は、芽吹いたばかりの柳の柔らかな緑が目にしみるようだった。風はまだ冷たくて、あいにくの曇り空。歩いている人はほとんど見えず、青年が一人、川に向かってドラムを叩いている。河原を五条通りまで歩いて左折し、後は小さな道をまごつきながら少しゆくと、細い路地の角に記念館があった。
大きな欅の一枚板に「河井寛次郎記念館」と看板が出ている。棟方志功の書を黒田辰秋が扁額に仕立てたという堂々たる看板を眺めながら、京の町屋ふうの何気ない入口の引き戸を開けて入ると、中は思ったよりずっと奥が深い。まず、注連縄(しめなわ)が飾られ、自作の大きな木彫像の置かれた簡潔な玄関の間。朝鮮張なる様式を工夫してつくったという磨き上げられた床張りの大きな部屋はリビングルームか。炉には自在鉤と茶釜。炉端に置かれた三つの大きな木の椅子は臼をくりぬいてつくり、底にローラーをつけて動かし易くしてある。すべて寛次郎の考案によるもので、このユニークな椅子もそうだ。周囲には美しく使い勝手のよさそうな木製の飾り棚、竹製の飾り棚、大きな木の机などなど、この部屋にあるものだけでも、いちいち説明を聞いていたら夜が明けてしまうような部屋である。一見、もう、びっくりしてしまった。しかし、ここで驚いていてはいけないのである。そこから大小さまざまな幾つもの部屋や陶房が、これ以上付け加えるものも余分なものも一切ないという完璧さで連なり、中庭をはさんで突き当たりの大きな登り窯まで続いてゆくのだから。また、そのつながり具合の妙ときたら。私は驚きを通りこして、アッケにとられてしまった。 陶芸家河井寛次郎が自ら設計・建築をし、亡くなるまで住んだ自宅を記念館として開館したのは1973年、寛次郎没後七年目のことだ。国内・国外からの見学者が跡を絶たず、生前にあった姿をそのままに公開することになったという。そこここに飾られている焼きものや、書や、木彫。その粗けずりで骨太の作品の躍動感についてはいまさら言うに及ばないが、それよりも何よりも、それらを含めたこの住まいのトータルに打たれるのである。 ついこの間まで、日本にはまだこんな暮らしがあった。「民芸」といわれるものの力が、ここに一歩足を踏み入れただけで納得されてしまうのだった。この間読んだ白州正子さんの言葉も思いだされた。 「日本の文化というのは、地方的な文化なのよ。東のはずれにあって、あちらこちらから文物を取り入れて、日本は吹きだまりみたいなところでしょう。吹きだまりにいて気候風土に合うように、磨いたり育てたりしてきたのよ」。 河井寛次郎は1890年、島根県安来町(現在は市)の生まれだ。家は代々建築を業としていたが、上京して東京高等工業高校(現東京工大)窯業科に学ぶ。在学中に後輩の浜田庄司に出会い、バーナード・リーチの新作展を見て深い感銘を受けた。卒業後には技師として京都市立陶磁器試験場に勤め、浜田を通して柳宗悦を知るのは二十六歳の時である。翌年、柳、浜田とともに木喰の遺跡を訪ねて紀州へ旅行。その車中で、民衆の手による工芸品を民衆的工芸と捉え、略して「民芸」という言葉をつくったというのは有名な話である。以後、彼らはこの言葉を確固たる信念の足場として制作や収集に励み、十年後には東京駒場に日本民芸館が開館。室戸台風で傷んだ旧居を解体して日本・朝鮮の農家のもつ建築美をとりいれた寛次郎のこの自宅が出来るのは、さらにその翌年のことである。郷里の出雲から棟梁の兄が大工一行をひきつれてやってきて、寛次郎ともども精根こめて建築にあたったという。年譜によれば、兄善左衛門はその翌年に亡くなっており、これが最後の仕事となった。 中庭には、大きな丸い石がぽつんと一つ、えもいわれぬ風情で置かれている。新築祝いに石燈籠を贈りたいと友人から言われ、熟考の末ただの丸い石を所望したという、その石である。そこここに萩の植えられた中庭は、居間からも、客間からも、仕事場からも見える。しょっちゅう集まっては談論風発したという柳宗悦や、浜田庄司や、バーナード・リーチも、熱した議論の合間に、この石を眺めたのだろうか。巧まざる巧み、それが民芸というものの極意だろうか。 記念館の館長である寛次郎の一人娘河井須也子さんは、講演のため今日は留守。須也子夫人には寛次郎の孫にあたる三人の娘さんがいるが、学芸員の妹さんも不在で、お姉さんの記念館主任荒川洋子さんが、この家で過ごした幼い日や祖父の思い出を言葉少なに挟みながら、館内を案内してくれた。やはり陶芸家だった父を亡くし、いまは孫の世代が中心になってこの記念館を守っているのだという。
美しい洋子さんに別れを告げて館を出た。なだらかな坂に沿って、かつては独特の景観を誇った五条坂周辺もいまはすっかり面変わりし、由緒ある窯の跡かたもない。寛次郎が生涯にわたる作品を生み続けた記念館の登り窯も、大気汚染防止法の規制を受けてその歴史を閉ざしてすでに久しい。時は過ぎ、世は移る。変わらないのは川の流れだけだろうか。いや、それだって大切に守っていかなければいつかは変わってしまう。そんなことを考えながら、いまにも降りだしそうな夕闇のなかを、私はまたしても鴨川へ向かう。
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