2005年(平成17年)10月1日号

No.301

銀座一丁目新聞

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北海道物語
(18)

「レルヒとバーサー・スキー大会」

−宮崎 徹−

 旭川の空港に降り立った時、旅行者の目に付くのが、スキー姿のレルヒの銅像であろう。テオドール・フォン・レルヒはオーストリアの軍人で、我が国にはじめてスキー技術を伝えた人として有名である。
 レルヒは優秀な軍人で、日露戦争の勝利で世界から注目された日本に、視察派遣の命を受けて訪れたが、すでに制動滑降等の技法を完成させていたアルペンスキーの権威だった。日本陸軍はこのレルヒに着目し、スキー教育の教師として高田市の歩兵連隊に冬の二ヶ月、軍民の有志に指導を委嘱した。これが日本のスキー教育の嚆矢といわれる。
 更に翌四十五年二月、レルヒは第七師団の指導のために旭川を訪れた。北海道の雪は寒気のため水分が少なくスキーに最適であると直感したと言う。今でもオーストリアの山地では旭川と同様に、コートの雪は手で払えば落ちるので傘は差さない。
高田ではもっぱらシュテム・ボーゲンを中心に指導していたが、ヨーロッパの風土雪質を持つ旭川では難斜面はシュテム・ボーゲン、緩斜面はテレマーク・ターンを教え、又ジャンプの技術も授けた。師団の背後にある春光台には、レルヒの滑降の妙を当時の旭川町民が見物に集まったというミズバショウの咲く場所が残っている。
 この頃のスキーは一本ストックである。レルヒは春光台の基本練習を終わった将校たちを連れて羊蹄山に登った。将校たちは初めて冬山スキーに挑戦したのである。レルヒの教え方は厳しく、指導は間違いを許さなかったが、普段は温厚でユーモアに富み、市民からも愛されたと言う。七ヶ月の滞在で九月に離旭したので、旭川の春も夏も味わっただろう。彼の帰国後も将校達はスキークラブを作り、スキー講習会に参加した。郵便局員もスキー部を発足させて、冬の郵便・荷物の運搬など、スキーの実用化につとめたという。
 昭和十年代に日本でオリンピックの開催の準備に入った時期、夏期は東京。冬期は札幌にと計画して、此の際レルヒを日本に招待したいということで、日本スキー連盟から連絡をし、レルヒご本人も楽しみにして居たというが、結局戦乱のため日本でのオリンピックは実現しなかった。レルヒの日本からの帰国後オーストリアは敗戦国となった。レルヒは更に第二次大戦の激動の時代に生き抜いたが昭和二十年、クリスマスの夜になくなったという。
 旭川はレルヒ直伝のスキーの町という感情を抱いていて、開村百年の記念の一つとして市民の募金で、旭川空港前に春光台の丘の方向に視線を注ぐスキー姿のレルヒ像を建立した。
 昭和二十八年に私が旭川に来た当時は、市内にも全道に知られたスキー店なども有り、スキーヤーの需要や相談に応えて居た。五十年の歳月でスキー用品の流通形態も変わり、海外からの製品も大型店を通して売られている。
 レルヒが賞賛した旭川の雪質の良さを知らせたい、という市民の声が呼び水となってか、「旭川国際バーサー・スキー大会」というクロスカントリーのスキーの催しが始められた。
 バーサーとは現在のスウェーデン王室の始祖グスタフ一世の名前である。十六世紀の頃デンマークを盟主としてスウェーデンやノルウェーはその傘下となってカルマール連合をつくっていた。デンマークの圧制から独立しようと幽閉されて居たバーサーがデンマークの官憲から雪中を追われ脱走、一本ストックのスキーで百粁近く走った建国の物語りを記念して、スウェーデンの国民は一度は此のコースを走り、沿道の住民は飲物や食事を提供してねぎらうスウェーデンの国民的な行事がある。これに因んで旭川でも走るスキー大会をという提案が、堤義明氏の側近で後に日本スキー連盟の会長となった当市出身の八木氏からから出された。そして当時全道的に行われて居た北方圏交流活動の一つとして、昭和五十六年に第一回の大会が行われたのである。
 難点は沢山あった。歩くスキーはゲレンデ用の一般スキーと同一でないから、一冬を此のスキーで市民が健康保持用に歩くという習慣を根付かせる時間が必要で、本州からの旅行者が普通のスキーで参加する訳には行かない。全国のゲレンデに雪がなくなる三月の春分、旭川で最後のスキーが出来るという八木氏の説くセールスポイントも、地球温暖化の傾向下では毎年三月に行うと発表して雪不足の場合どうするのか。いくら旭川でも三月の雪質は落ちるだろう。日程は学校の運動会の様に流動的に出来ないのか。いや本州にもPRする以上確定日付が必要だともめた。
 しかし其の時の市長の板東徹氏は、失敗を危惧して新事業に踏み切らないタイプの男ではなかった。何時かは冬のオリンピックが北海道で開かれる時、其の一部分でも雪と氷の旭川でという市民期待を基に経済界の協力を得て、昭和五十六年の開催にこぎつけたのである。参加者も年々増加し、ピークの第六回は一万三千人を越えた。第十回の記念大会にはスウェーデン国王をお招きした。ただ、歩くスキーの性格上、地元が中心で中々国の内外には拡がらず、今年第二十五回は参加者四千二百人である。地球温暖化で何時迄春分に出来るかは判らないが、二月の厳冬では子供達の参加は無理だろう。写真のように老幼男女合わせての市民参加のこの行事を続けたいものである
 むかしレルヒ少佐のスキー講習を受けたと自慢する人達も旭川には居たのである。第十回大会でスウェーデン国王が来られた時にあのコースを滑った子供達が大きくなっても話せる様に、旭川の清洌な雪質を、天も守って貰いたいものである。

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