2005年(平成17年)9月20日号

No.300

銀座一丁目新聞

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茶説

小泉手法は翼賛政治か

牧念人 悠々

 選挙で大敗した民主党は43歳の党首で再生を図る。今なお民主党は自民党の敵ではない。実力がなさ過ぎる。政治の流れとして二大政党化状況にあるに過ぎない。あくまでも「状況」である。ここを見落としてはいけない。こんど選挙報道の中で気懸かりな表現があった。「戦後60年、翼賛政治が亡霊のように頭をもたげてきた」(毎日新聞の記者の目)とか「私は大政翼賛会の中で国民が何も言えず戦争に突っ走った時代を知っているから」(同夕刊特集WORLD)という翼賛政治、翼賛会の表現である。もちろん小泉首相を批判するために引用している言葉である。いまどきの若い人達はこのような言葉を知るまい。私自身当時は16、7歳の軍国少年で、東条英機首相が大東亜戦争に勝つために挙国一致の政治体制を作ろうとしたぐらいの認識しかなかった。この言葉に違和感を覚える。少し考えてみたらいい。戦前そのようなことを新聞で発表したら憲兵隊に「流言飛語の罪」で忽ち逮捕されたであろう。「記者の目」の記者も「特集WORLD」の寄稿者も捕まったのを聞かない。今は日本はなによりも表現の自由の国である。無知な私は二人のおかげで色々勉強させていただいた。先ず「広辞苑」を引く。「翼賛政治会」1942年(昭和17年)首相東条英機の主唱で翼賛政治体制協議会を母胎とする推薦選挙(翼賛選挙)によって当選した衆議院各派全員の参加の本に結成された政治結社。その「翼賛選挙」は1942年4月30日第21回総選挙として行われ自由主義的候補者を圧迫、翼賛政治体制協議会による推薦候補が定数466名のうち381名を占めた。非推薦の当選者は85名であった。徳川夢声の「夢声戦争日記」に翼賛選挙での非推薦候補者へ応援演説したくだりがある。それによれば応援演説で一人が天皇機関説に触れて警官から注意を受ける。叔父は35連隊と現地で活躍した連隊の名をいって危うく憲兵隊に呼ばれるところであった。夢声は会の最後に『有権者万歳』という音頭を取って「取り締まり規則」違反ということで油を絞られる。当の候補者は「軍人は政治に関わらないほうが良い」と口走って憲兵隊に引っ張られた。この候補者は落選した。東方会総裁の中野正剛はこの選挙に福岡1区で非推薦で立候補、当選する。東方会はこの時46名を立候補させたが当選したのは僅か7名であった。しかも各地で激しい弾圧を受けた。この選挙で翼政協は推薦候補者に推薦料として5千円以上を与え500万円以上の政治資金を使ったが、その資金は臨時軍事費から支出された完全な「官選選挙」であった(中野泰雄著「政治家・中野正剛」下)。
 翼賛選挙と比べて今回の選挙はどうであったのか。各地の選挙演説会で官憲の干渉があったのか。そのようなことは絶無であった。「官選選挙」ではなく『自由選挙』であった。確かに自民党内では郵政法案に反対した候補者は公認されず刺客まで送り込まれた。組織の中で反対論を述べても良い。むしろ活発に意見を戦わすべきである。しかし党議として決まった以上自分の反対意見を抑えて党議に従い、その成立に力を尽すのが党人として取るべき道である。これが民主主義である。あえて造反したのだから党から切り捨てられてもやむを得まい。郵政改革を実現させるための一つの手段である。これを翼賛政治とは大袈裟すぎる。今回の選挙の結果を見て「このままではこの国が滅びる」といい「ヒトラー待望論のような空気を感じる」と批評する人がいるが有権者をこれほど馬鹿にする言葉はない。日本人は選挙では絶妙なサジ加減をする。私は日本人を信ずる。もちろん馬鹿げた批評をする人も愛する。

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