北海道物語
(1)
「雪のおと」
−宮崎 徹−
旭川は戦前は陸軍の第七師団のあった軍都だった。連絡船と札幌経由で駅頭に降りると、駅前の商店街の大通りが石狩川にかかる橋を渡って旧師団の前まで続く。この通りを師団通りと言ったが、戦後直ちに平和通りと改名した。
時代の流れに飛び込んで泳ぐ様な商店街で、戦前の軍都の頃、除隊兵が記念品に配るのに頼んでいた陶器店や、馬の蹄鉄も扱う馬具店などが未だに残っている。それに樺太から裸一貫で引き上げた人達が、たくましさを発揮して闇市の跡地に店舗を立ち上げて居るのが目立った。
明治35年1月25日旭川は、今に残る零下41.0度という日本最寒記録を持った日だ。この日北海道南方を低気圧が通過し、そこへ北からシベリアの大寒気が流れ込んだ。この異常な寒気は東北地方まで包み、この時不運にも耐寒行軍訓練中の青森の歩兵大隊二百余人が凍死した。八甲田山の悲劇として軍歌にも歌われ、映画にもなっている。
屯田兵が置かれ師団が置かれた旭川はもとより雪と寒さの街である。覚悟して戦後住人となったが、先ず10月に初雪が降るのに驚いた。これは2、3日で溶ける。11月には降ったり溶けたりを繰り返すが、大体12月の某日に降った雪は、溶けないで後から降る雪がつもり重なって春まで日の目を見ない。この雪を根雪と云う。あの日が根雪日だったのかと思う頃は、人間の体も馴れて冬支度の体制に入る。そしてそれから真冬日という最高気温が零度以下という寒波がつづく。こうして人間も根雪と化するのである。
「雪ハ鵞毛ニ似テ飛ンデ散乱シ・・・」とは謡曲鉢の木の一節だが、これは本州の佐野の庄辺りのべっとりと水分を含む大粒のぼたん雪だろう。北海道の雪は小粒でサラサラとしている。旭川のスキー場はアスピリン・スノーと云って北欧の雪質に似ているとスキーヤーは喜ぶ。
玄関の前でオーヴァーをはたくと粉雪は落ちてしまうので傘を差す人は居ない。何時も傘を携行する私は直ぐにお郷が知れてあいつは内地から来たと云われるのだった。
深沈とした夜、音もなく雪は降り積もる。それでも夜が更け零下20度近い気温では地面の粉雪は乾いて、踏むとキュッキュッと音がする。雪沓や長靴をはく人の雪を踏む音が雪鳴りとなって聞こえると、ああ、明日は寒いな、しばれるなという。
君かえす 朝の鋪石さくさくと
雪よ 林檎の香の如く降れ
北原白秋の若い日の歌で、若かった私の好きな歌であった。二つの雪の音の違いを思い出す。 |