2005年(平成17年)4月1日号

No.283

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(198)

佐島博之君を偲ぶ

 同期生の会合で佐島博之君(輜重)が2月13日死んだのを知った。敗戦時、佐島君は船舶兵科の鈴木照行君とともに陸軍士官学校(神奈川県座間・相武台と称する)の雄健神社社頭で割腹自決を図った。鈴木君は目的を達したが、佐島君は果たさなかった。「生き残った」ことが終生、佐島君の心の中のトゲとして残っていたという。
 昭和20年8月15日、終戦で陸士59期の地上兵科の士官候補生はそれぞれの演習地から座間に戻った。輜重兵科38名は長野県芦田村関山国民学校から8月17日相武台へ。西冨士演習場で野営演習中の歩兵科3個中隊529名も18日帰校した。相武台は騒然としていた。断乎戦おうと叫ぶもの、承詔必謹を説くもの。相模川をはさんで対岸の厚木の海軍航空隊の海軍機は相武台上を低空で飛び、徹底抗戦のビラを撒く。漸く落ち着いたのは22日であった。北野憲造校長(陸士22期・中将)と八野井宏生徒隊長(35期・大佐)は59期生、60期生を大講堂に集め、このたびの終戦が陛下の自らのご決断である旨を告げ、士官候補生の自重と陸士の名誉の保持を説いた。豆台風の接近で雨が降りしきる日であった。歩兵科の同期生、長井五郎君は「陸軍士官学校の終戦は、正確にはこの日、昭和20年8月22日であった」とその日記にしるす。
 「望台」(59期生史)には佐島、鈴木両君についてかなりのスペースを割いて記す。二人とも58期生からの延期生であった。陸軍病院で療養中に知り合い肝胆相照らす心友となった。「貴様どうするか」という鈴木候補生の問いに、佐島候補生は「相武台に殉ずるつもりである」と答える。仙台幼年学校出身の鈴木君は母親に日本がもし敗れるような事があれば死を選ぶと語っていた。8月22日夜、二人は雄健神社の遥拝所で日本刀で自決を図った。この直後、佐島君の不在を知った輜重中隊に非常呼集がかけられ、船舶中隊にも連絡されて二人は発見された。応急手当を受けたあと相模原病院に移された。鈴木君は23日朝、国に殉じた。佐島君は一命を取りとめた。
 戦後、佐島君は北海道炭鉱汽船に入社、そのあと独立して日本カーフエリーを起して川崎ー宮崎間のフェリーを運航して大いに業績を上げた。「自決失敗のトゲ」が戦後の佐島君を支え、発奮の原動力になったと私は思う。同期生の植竹与志雄君(船舶)は佐島君とは親しく、日頃から自決の模様と当時の心胸を書き残しておくべきだと進めたところ最近、その手記をわざわざ植竹君の八王子の自宅まで届にきた。公表は遺族の願いでとめられている。長井五郎君の日記によれば「自決を図ったという話は電光の如く相武台上を走った。気持ちは十分わかる。しかし、今、死ななくても・・・と思う。しかしまた、今だから死ぬのかと思う。誰もなんとも言わぬ。重苦しい空気が区隊の中をおう」とある。
 私は本科にきて「ぶざまな死に方だけはしたくない」と常に考えてきたので、その純粋さには驚嘆した。同じ府立4中の同級生であった同期生の今泉丈彦君(航空襲撃)は「俺は2年から名古屋幼年学校に行ったが、彼は4年から陸士に合格したので58期になった。だが病気で延期したので同期生になった。戦後も付き合った。いい男であった。58期生の面倒見もよかった」と評している。享年78歳。心からた冥福を祈る。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp