陸士の同期生、池田皓君を偲ぶ会が開かれた(2月2日・ホテルニューオータニ)。池田君とは兵科は歩兵で、区隊こそ違え、同じ14中隊で昭和19年10月から昭和20年8月まで同じ兵舎で同じ演習場で苦楽を共にした。彼の2区隊長は鈴木正夫さん(陸士54期)で「ガラまさ」と綽名された厳しい区隊長であった。2002年10月には彼も私も幹事として1、2区隊合同の区大会を開いた。会場には合同区大会の写真も飾られたあった。
偲ぶ会は彼が名誉会長を勤める東特塗料株式会社の主催。関係者450人が出席、盛大であった。同期生は53名を数えた。
彼の会社は電気絶縁テクノロジー分野では世界の最先端を行き、生産量も世界2位を誇るという。うかつであった。私は相手が何を商売しているか聞くのは失礼と思い質問しない主義にしているので、彼を中小企業の社長さんとばかり思っていた。現社長で長男の聡さんによると陸士と明治法学部で学んだ参謀学と「前へ、前へ」の精神でいち早く海外戦略を立て、埼玉県本庄を中心に台湾、中国、インドネシヤに進出して欧州連合に備えようとしたという。陸士では戦術は勉強した。歩兵には「退く」戦術はなかった。また「協同一致は戦闘の目的を達する為きわめて重要なり」と説く「作戦要務令」は大いに役立ったことであろう。新聞記者の私でも社会部長とない役員となり、代表、社長となった時、座右の書であった。戦後経済界に進出した陸士出身者の集まりである「同台経済懇話会」でよく顔合わせたが、「俺は毎朝、神宮外苑を一時間ほど散歩している。それが健康法だ」(自宅は渋谷区千駄ヶ谷)とよくいっていた。つくづく思う。人間にはその人がもって生まれた寿命がある。彼のように健康を考えた人間でも80歳を前にしてなくなった。残念である。同じ区隊で池田君と仲のよかった西村博君は死去の連絡を受けて、自宅に弔問、池田君のなきがらの傍でひとりで「陸軍士官学校の校歌」を歌い、別れを告げた。偲ぶ会で校歌のほか「遠別離」を同期生で合唱した。
「程遠からぬ旅だにも/袂わかつは憂きものを/千重の波路を隔つべき/きょうの別れをいかにせん」・・・・
(柳 路夫) |