1998年(平成10年)4月20日(旬刊)

No.37

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(9)

峰森友人 作

 ディネスがネパールでライセンス生産しているビールのツボルグを持ってきて、昼食の注文を聞いた。

 ダール豆スープと盛り合わせご飯、それにタルカリと呼ばれる野菜炒めからなるネパールの定食ダールバートとガーリックスープの昼食が終わると、静かな時間が流れた。しかし次々到着するトレッカーたちを迎えているうちにあたりは急に暗くなり、雷鳴とも飛行機の爆音とも区別しがたい音が谷にこだまし始めた。

 「雷かしら?」

 百合が谷を見回した。その時である。突然山も谷も一斉に白く光ったかと思うと、耳をつんざく轟音が谷を揺るがせた。同時に大粒の雨がたたきつけ始めた。慶太はテーブルの上に広げてあったガイドブックと地図をかき集めて左手に持ち、右手で百合の左腕をつかむと、固定したテーブルと長いすの間から百合を吊り上げるようにして引き出し、その腕を引っ張って庇の下へ駆け込んだ。ごくわずかな時間でしかなかったが、百合の髪から頬にかけてシャワーを浴びた直後のように、滴が流れ落ちている。谷底から激しい風が吹き上げる。それが渦巻き、テラスの木やテーブルをたたき、また谷に向かって吹き下ろしていく。モディ・コーラの谷で稲妻と雷鳴が猛り狂った。雨とガスとで数十メートル先も定かには見えない。

 「あら、電気だわ」

 庇の下の床几に座った百合が、薄暗くなった中でテラスの突き当たりにある食堂に小さな明かりがついたのを見つけた。

 「昨日はなかったわ」

 百合は不思議なものを見るように、感心している。こんな山奥に電気があるのは、実は一人の日本人のお陰だと、慶太は話しを始めた。それは八〇年代の初めのことである。一人の山男が日本からアンナプルナのトレッキングにやって来た。そこでヒマラヤの森林破壊が進んでいることを知った。木を切るなと言っても、薪に代わる燃料がない限り、村の人たちは木を切らざるを得ない。男は考える。何とか村の人に薪に代わるエネルギーを提供出来ないか。

「その人は最初、アンナプルナから吹き下ろす風を利用して風力発電を考えたんだ。そこで明日行くチョモロン村に手作りの風車を据え付けた。ところが待てども待てども風車を回すほどの風が来ない」

 思案の挙げ句、急斜面を流れ落ちてくる沢の水の利用を思いつく。今度は自動車の発電機を持ち込んで手作りの水車を使った水力発電に取り組む。ヒマラヤのモンスーン期には日本でタクシーの運転手をして貯金をし、モンスーンが明けると、材料を買い込んでチョモロンに入る。数年間試行錯誤を重ねて、ついに村のすべての家に小さな電灯をつけた。

 「トレッキングにやってきたアンディ・ウォホールはこの日本人の活動に感動して、すぐ激励の数千ドルのチェックを送ってきたそうだ。しかしこういう個人の活動には国連や先進国政府は何の援助もしなかった」

 慶太は感慨深そうに言った。

 「世の中には本当に勇敢な行動を個人でする人がいる。その一方で、苦しむ同胞と一緒に汗を流す気のない国際的エリートが大都会や国連の会議場でとうとうと開発援助のあり方をぶち上げることに明け暮れている。そういうのを見ていると、あなたがたも一度国に帰って汗を流してみてはどうですかと言ってみたい衝動に駆られてしまう」

 百合は雷と雨の続く谷間に目をやったまま、慶太の話しを聞いていた。まだ濡れている髪の下のきめこまかい肌の横顔は相変わらず寂しげで、何かを思い詰めている様子だった。

 バージン・アトランティック航空の娘たちも、途中激しい雷雨に打たれながら、ガンドルングにやってきた。夕食の席には、幾組みかの北欧からのトレッカーがいたが、百合はもっぱらジャッキーという名の背の高い方の乗務員としゃべっていた。食事が終わって部屋に向かう時、

 「イギリスのこと詳しいようですね」

 と慶太が言った。

 「少しだけ。しばらく住んでいましたので」

 「それであなたの見事な英語のなぞが解けた。特派員で?」

 「いいえ、ロンドンの学校に行っていたものですから」

 百合はこう言うと、自分のことから話しを変えた。

 「ジャッキーはなかなか知的な人で、しばらくキャビン・アテンダントを続けて、お金が出来たら、本格的に大学院へ行きたいんですって。日本でも増えているんですけど、一度就職してから考えるところあって、また大学院に行き直すというのはどうやら世界中女性のようですね。社会や組織がいろいろ準備してくれる男性の場合と違って、女は自分で道を切り開くしかないからでしょうね」

 百合は考え、考えしながら話した。

 「女が何で苦しんでいるかは、恵まれている日本の男の人にはまだ十分には理解されていないでしょうねえ。比較的進んでいるJTSでさえも、男は外でがんばる、だから女は家庭を守れと言って平気な人がめずらしくないんですもの」

 谷底から闇と冷気が這い上がってきた。村の家々にもぼんやりと電気による明かりがついている。日本人が最初に灯したアンナプルナの灯。ヒマラヤの奥深い山中にも人間の営みがあることをその灯は教えてくれる。

 「明日はいよいよチョモロン。アンナプルナにもっとも近い一番奥の村です」

 慶太の言葉に少し顎を突き出すようにしてうなずいた百合が、左腕をさすりながら、

 「まだ痛いんです」

 と呟いた。

 「慣れない杖を使ったから?」

 「いいえ」

 軒下の小さな電灯のわずかな光の中で百合が首を振った。

 「雷が来て・・・、その時佐竹さんが私の腕を持って、引っ張ってくれたでしょう。その時ものすごい力だったんですもの・・・」

 慶太は百合の左腕を取って、百合が押さえていたところをゆっくりとさすった。腕はさらさらと滑らかで、冷たかった。百合はその腕をじっと見たままされるに任せていた。

 

 翌日チョモロン村に着いたのは、アンナプルナを望む北斜面の村の一番上からだった。

 ロッジのテラスで昼食を取り終えたところへ、ナラヤンがどこからか戻ってきた。

 「今村の中で電気のことをきいてきました。ほらあそこに川が見えます」

 ナラヤンが北西の斜面を指した。

 「あの川の水をひいて、発電機を回していたんです。しかしその日本人も数年前からいなくなって、今は発電機が故障して、チョモロンには電気がないんです。みんな修理をと思っているようですが、ついそのままに」

  ナラヤンはまるで自分に責任があるかのように、ばつが悪そうに食堂へ向かった。

 「やっぱりメインテナンスが問題なのね。途上国の問題点ね」

 百合が言った。

 「でもメインテナンスって言えば、女性の体のことも言えるんじゃないかしら。使えるだけ使って、使えなくなったら邪魔物扱い。途上国では女に生まれるだけで罪であるかのように扱われるでしょう?最近インドなどでは、胎児が女と分かると中絶するっていうし。そんなことは許されてはいけない。でもその女の子が一生苦しむために生まれてくるのだとしたら、生まれなかったことはかえってよかったのかも・・・」

 「河童の社会だとね、これから生まれようとするお腹の中の子に父親が親切に聞いてくれる。おまえは生まれたいかどうか、よく考えて返事しろってね。すると親のようにはなりたくない胎児は、僕は生まれたくありませんなんて答える。すると医者が直ちに中絶する」

 百合の顔は思わずほころんだ。

 「現実には、生まれるかどうかは胎児には決められないけど、母親は決められるわね。つまり自分は今子供を持ちたいかどうかとか。問題はそれを決める自由を全く与えられていないってことでしょう。子供を持つかどうか、出産するかどうかを自分で決められるようになれば、途上国でも女性の生き方っていう点でずいぶん変わってくるんでしょうね。女性が自分の運命を自分で決める。佐竹さんは女が強くなるのに反対ですか」

 二人が話しているうちに、雲が広がり、下降気流がロープにかけられた干し物やテラスの木を激しく揺さ振り始めた。

 「いよいよ雷さまの午後の運動が始まりそうだ。また腕を痛めるといけないから、早めにお昼寝にしましょう」

 慶太の誘いに百合はいすから腰を上げた。テラスにいた他のトレッカーたちも、急に騒ぎ出した大気にまもなく来るものを察してテーブルを離れていった。

 雷鳴と共に嵐が来たのはまもなくだった。標高二一〇〇メートルのチョモロン村は激しい雨と音に打たれた。

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