小さな個人美術館の旅(33)
堂本印象美術館
星 瑠璃子(エッセイスト)
立命館大学前でバスをおりると、目の前が美術館だった。京都市の北西、衣笠山のふもとに広がるこの地は、何もかもが清々しく明るい。早春のきりりと冷たい空気を感じながら、ゆったりとした車寄せを上ってゆくと、玄間があった。
近寄って見ると、建物の外壁には一面に浮き彫りの彫刻が施されている。中に入れば、広々としたエントランス・ホールの真っ白な壁面も金色のレリーフで飾られ、照明や、ステンドグラスや、そこここにさりげなく置かれた椅子や、扉や、ドア・ノブにいたるまで、すべてが画家自身のデザインによって美しく荘厳されて、さながら回教寺院にでもいるよう。建物自体が作品といってもいいこんな美術館に、私は初めて来た。
堂本印象美術館は、1966年、作品を散逸させることなく残したいと画家自身の手によって建てられた、文字通りの個人美術館だ。長い間社団法人として運営されてきたが、二千点の所蔵作品に十二億円という運営資金を添え、隣接する画家の自宅ごと京都府に寄贈されたのは、画家の没後十六年たった1991年のことである。京都府はさらに二億六千万円をかけて施設を整備し、府立の美術館として再オープンしたというから、全てが桁はずれの美術館である。
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堂本印象美術館 |
滞欧作を含む童心溢れる油絵の小品や、陶器などが並べられた小展示室を過ぎると、年に三、四回行われるという企画展のひとつ「堂本印象花鳥画名品展」が始まっていた。まず一階奥の二つの部屋に、導入部をなす素描、水彩などがふんだんに飾られている。変幻自在、多彩無限、変身につぐ変身を遂げてやむことのなかった個性あふれる日本画家の、これは素顔ともいうべきスペース。花や鳥たちの姿が、少しの奇も衒わぬ確かな筆致で描きだされている。
そこにも作品の飾られたゆるやかな傾斜の渡り廊下をゆくと、メインの二階大展示室に出た。そこは「大和信貴山成福院の襖絵を中心に」とサブタイトルにある通りの、堂々たる展観である。信仰厚かった画家は、昭和の前半多くの障壁画を描いたというが、信貴山成福院の約四十面の襖絵は、その期の代表作とされる四十四歳の作である。その中から、美しく彩色された可憐な「秋草」図や、松の枝にわずかに黄をさしてえもいわれぬ詩的な情趣をかもす「松に鹿」図などがゆったりと並んでいる。めくるめくばかりに奔放華麗な画業を展開した堂本印象の画業の一端に、こんなに深く静かな形で触れられるとは、正直言って意外だった。門外不出、非公開の襖絵なのだから、なおさらのことである。
堂本印象は1891年12月、京都に代々伝わる造酒屋の三男として生まれた。父は家業を営むかたわら短歌や俳句、茶や花や書画骨董にも造詣の深い教養人だったが事業に失敗、間もなく亡くなってしまう。京都市立美術工芸学校の図案科に在学中だった印象は、卒業後は絵画専門学校に進んで画家になることを夢見ていたが、やむなく三越図案部に入り、やがて西陣の龍村平造の工房に転じて、家計を支えるための図案描きとなった。八年間仕事に専念、早くもその世界で頭角を現すに到ったが、画家への思い断ちがたく、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学して再び学び始めるのは二十七歳の時。第一回帝展の出品作「深草」(二曲屏風一隻)が初入選するのは、その翌年のことである。美大在学中の青年日本画家の、遅いといえば遅いスタートであったが、その後の活躍ぶりは目ざましく、1961年文化勲章受章、75年、八十四歳で没するまでの五十六年間を、ひたすらに描き続けた道筋は知られる通りである。
よく引用される画家の言葉に次のような一節がある。
「芸術の旅人達は、教会を経巡り、聖地を巡拝する人々や、平安なる未来を欣求し、寺院仏閣を巡礼して、神仏に奉讃する巡礼者よりも、むしろ華厳五十五ケ所を行く魂の求道者、善財童子に近いものがあるのではないか。芸術の旅は優れた旅、最も楽しい旅であると同時に、計り知れぬ思索と苦悩を背負わされて、美の跫音をすぐ背後に聴きつつ故郷へ帰る旅でもある」
明るく、華やかな色や形を追い求めてとどまるところを知らず、「旅」から「旅」を続けたのは、まさに堂本印象その人であった。生涯結婚もせず、日本画とか洋画とかのいっさいの垣根をとりはらって仏画、歴史画、風俗画、風景画、心象画、抽象画と、芸術の旅を経巡った画家の、帰ってきた「故郷」とはどこだったのか。それは文字通り、この「京都」だったのではあるまいか。原点ともいうべき「花鳥画名品展」を見ながら、私はひそかにそう思った。そして、この壮大な建物は、もしかしたら晩年の画家の祈りの場であったのかもしれないと。
長い時間を過ごして外へ出た。ふりかえると、美の殿堂は雲ひとつない真っ青な空をバックに白く輝くよう。美術館前の道は、右へゆけば仁和寺、左へゆけば銀閣寺へと続いている。