制止を振り切ってイラク入りした香田証生さんは拉致した武装グループによって殺害された。両親にとって見れば不肖の子供ゆえに不憫でならないであろう。心からお悔やみ申し上げる。芥川竜之介は「運もその人の性格のうち」といった。香田さんは時に24歳であった。その無残な死は運命ということであろうか。
私は24歳の時、毎日新聞東京本社社会部の警察周りの記者であった。食う為に選んだ職業であった。底が抜けそうなズック靴を履いて警察署を毎日廻った。冬は払い下げの毛布で作ったハーフコートを着ていた。食うのが精いっぱいであった。手元にある本で有名無名の人達が24歳の時どんなことをしていたか調べてみた。
西郷隆盛。嘉永3年(1850年)3月、前年の薩摩藩内部の権力闘争であるお由良騒動に連座する。同志達と藩政改革にのりだす。死んだのは明治10年の西南戦争の時で自刃、51歳であった。
吉田松蔭。嘉永6年(1853年)1月10年間の遊学を許される。6月ペルー来航を聞き浦賀へゆく。「将及私言」を藩へ提出する。10月、露艦に乗る目的で長崎に行くも果たさず。安政の大獄の最後の犠牲者として伝馬町牢内の刑場で処刑された。安政6年(1859年)10月。30歳であった。
竹村孝一。昭和11年東大農学部卒業。12年10月入営。13年9月外地出征。14年2月23日華中にて戦死する。「また一つ星ながれたり銃握る手に冷え冷えと夜露しめり来」
細田吉夫。陸士56期。昭和20年1月5日細田中尉(戦死後少佐に昇任)ら3機はルソン島西方海上で敵護衛空母、重巡艦、駆逐艦など7隻に特攻を加えて損傷を与えた。航空士官学校56期生の軍偵察機班19名中でただ一人の特攻散華者であった。遺詠「天翔来る 益良武夫の行く道は 醜の御盾となりて散るのみ」
香田証生さんの遺体が司法解剖に付され、その夜前夜祭が開かれた同じ日の新聞紙面にアメリカプロバスケットNBAのサンズに所属する田臥勇太(24)が初志を貫徹、リーグ創設59年目で初の日本人選手となり、初戦で7得点1アシストの活躍したとあった。
イ ラク行きは香田さんにとって自分探しの旅だとしても余にも無謀というほかない。自分を鍛えるのも自分だが、自分を守るのは自分であることを忘れていたように思う。 |