2004年(平成16年)11月10日号

No.269

銀座一丁目新聞

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追悼録(184)

9座の8000m峰を登頂した名塚さんを偲ぶ

  登山家の名塚秀二さんの葬儀に参列した(11月7日・前橋市)。葬儀は無宗教形式、登頂に成功したサガルマータ厳冬期南西壁登山(平成5年12月)やテレビに出演、山を語ったビデオが会場に流され、ありし日の名塚さんを偲んだ。名塚さんは10座目となるヒマラヤ・アンナプルナ(8091メートル)を登山中、雪崩にあい、10月10日午前11時ごろ、登山隊長の名古屋の佐藤理雄さんとともに死亡した。
 サガルマータ登山総隊長であった星野光さんは弔辞で名塚さんと第一次サガルマータ登山の際(平成3年12月)、高所訓練のために登ったポカルデピーク(5806メートル)の思い出を語った。頂上を目前にそそりたつ20メートルの絶壁に登頂を断念しそうになった星野さんを名塚さんは「ここまで来て、諦めたらダメです」と励まし、星野さんをロープにくくりつけ隊員とともに絶壁の上まで引き揚げた。おかげで頂上から素晴らしいヒマラヤの8000b級の山々を堪能した。またとない山の醍醐味を教えてくれたと感謝した。
 筆者は第一次、第二次とサガルマータ登山をスポニチが支援したことで知り合い、平成7年設立したスポニチ登山学校の講師として迎かえたので縁は深かった。社会人から山登りをはじめたというが、謙虚で温厚な人柄で、精悍な山男の風貌をしていた。山では「五度石橋を叩いて決断する」という慎重さであった。
 高校時代の同級生は「君の弔辞など読みたくもない。君は今でも僕の胸の中に生きている。高校の時、自転車で世界一周したいといっていたが、まだ果たしていないではないか、ぜひオレの夢の中で実行して欲しい」と呼びかけた。ともにサガルマータを登頂したスポニチ事業部の尾形好雄さんの話によれば、夫人の好子さんは世界的なクライマーである。時にはスポニチの伊豆のスポニチ大仁山荘に夫婦で泊まり冷えた竹筒には入った地酒を飲み楽しんだ翌日、伊豆の絶壁登坂の施設で訓練にいそしんだという。スポニチ登山学校の卒業生や現在学んでいる7期から9期の生徒たちも多数、葬儀に参列。別れを惜しんだ。
 喪主の好子さんは「名塚の人生は短かかったけれども楽しかったに違いありません。一緒に過ごした私がそう思うのですから間違いはありません」と気丈に挨拶した。心からご冥福を祈る。

(柳 路夫)

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