2004年(平成16年)11月10日号

No.269

銀座一丁目新聞

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自省抄(11)

池上三重子

     人は死ぬ 必ず死ぬ

8月15日(旧暦6月30日)日曜日 快晴・驟雨


 八月十五日!今日は敗戦の日よ。
 ヤワラちゃんたち、金メダル組おめでとう。
 志成らなかった選手の皆さんにも拍手です。
 負くるも勝つも時の運―と、母は隣接する母校の校歌とともに運動会のこの歌をよく歌っていた。涙と汗に感激を語る彼女に私も目がしばたく。日本人! の自己確認よ。
 オリンッピクに圧されて終戦はやや影薄と感じたが、五十九年前の記憶は二十一歳の記憶、粛々と鮮しい。
 その日。重大放送の予告に従って全校生徒の出校日。職員室の校長席の卓上にラジオ。職員も各自の席につき正午を待つ。緊張の面持ちも雰囲気も重い。
 今上陛下(昭和天皇)の玉音(肉声)は雑音ザァガガに妨げられたが戦争終結の詔勅であった。瞬時に空気はどよめきに変わった。全く寝耳に水式の私は自分の顔色の醒めを感じた。予想していたという男子職員の低い声が耳に入る。
 一億玉砕!
 欲しがりません勝つまでは!
 パーマネントはやめましょう!
 国民標語は急転直下した。
 私は小走りに中央廊下を教室へ向った。
 校舎は第一棟から第三棟まで有り教室は第三棟の北西端の一室。農業生産物・米・南瓜の収納室の隣に位置していた。
 高等科二年女子組は動員中。非常時下発令の総動員令はそれを命じたのである。軍需工場の勤労奉仕に従事することが即学習。教室は軍需工場の孫工場? 曾孫工場化が現状。 
 久留米市から作業台三台と作業ミシンが搬送されて据わり、作業指示に小柄な小父さんが通勤した。
 工場教室に、農業学習場の農園からさざめき笑い声立てて生徒たちが帰ってくる。全員着席を待つなり怒声がほどばしり出る。
 ―あなた達ッ悲しくないのですかッ・・・・
  日本が負けたというのに・・・
 だんだん声がかすれてゆく・・・消えた。
 私は憂国・愛国者である。自認する。尤も昔もいまも言葉にしたことはない。それだけに自認度も高いかもしれない。
 当時愛国百人一首を愛誦した。
 昭和十七年三月、福岡県女子師範学校と呼んだ現福岡教育大の前身を卒業の頃の新刊カルタ・愛国百人一首である。幕末勤王の志士の歌の集大成か。次の一首はとくに心を射た。
 我が胸の燃ゆるおもひにくらぶれば
 煙は薄し桜島山
終戦の夜は涙しながら墨書した。
 臣節を捧げ尽くせし吾なるや
 涙ながるる日本敗れたり
当時、書き方紙といった習字用紙をこよりで綴じたものに、折々の自己流の自己のみ知る即席歌の増えていくのが楽しみだった。
 私は空大好きにんげんだった。
  今征くは君ならずかや銀翼の
  音に拝む蒼穹の飛行雲
 人は死ぬ。
 必ず死ぬ。
 ここに原点を得てやすらぐようになって久しい。見入る手鏡に映る老媼の面に変容をうなずき微笑みが生じる。今年も生きて終戦の日の夕べをむかえた。室に漂う晩夏初秋のたそがれの色素早い変化が思惟を代わりに誘い出す。
 母よ! 
 兄が戦没し父が頓死し姉が癌死し、母よ!あなたは絶対安静の指示により、「どうすっじゃかあ!」と悲鳴に似た呟きを最後に自由に出来ていた傍のポ^タブルトイレ使用を断念された。下の世話になりたくない意志は生への信頼と慈父の象徴。
母よ!あなたの絶望を感受しながら知らぬふりを通した不肖の娘をお恕死ください。この事も私は私を第一とした何よりの証拠。あなたは何事にも常臥の私を第一としてくださった!一事としてなかった。
 終戦の日きょうも又、終わることなくより深い慙愧のこころうごきです。
 夢見が楽しみです。
 お顕ちくださいね!お待ちしていますからね。



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