2004年(平成16年)9月20日号

No.264

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追悼録(179)

竹久夢二を偲ぶ

  抒情的な美人画で知られる竹久夢二(本名茂ニ郎)が亡くなったのは昭和9年9月1日である。今年で没後70年。肺結核に悩み、晩年不遇な夢二を最後まで世話したのは正木不如丘博士で、長野県富士見にある高原療養所で息を引き取った。享年50歳であった。
 今年も東京・雑司が谷霊園で営まれた「夢二忌」を報ずる新聞記事に同期生、鹿野琢見君の名前を見つけた。考えれば、何の不思議はない。夢ニの画の熱心な収集家であり、平成2年11月には竹久夢二美術館まで作り、その館長である。この美術館で本科の区隊会を開いている。驚いたことに鹿野君がアコーディオンを演奏したとあるではないか。本業の弁護士稼業の傍ら良く稽古をしたものだと感心する。聞けば20年程前からやっている。陸軍士官学校に入る前一時、代用教員をしており、音楽を教えたという。最近、同期生の中には画、カメラ等趣味に精を出すものが少なくないが、筆者も俳句のほか何かを見つけねばなるまい。
 夢ニの詩「宵待草」は中学生の低学年のころ、高峰三枝子の歌でなんとなく覚えた。「待てど暮らせど/こぬひとを/宵待草の/やるせなさ/こよい月も出ぬそうな」作詞は大正2年だが、曲をつけて発表されたのは4年後である。夢二はロマンチストで恋多き人であった。この詩も町でたまたま出会った女性に恋して作ったものだと伝えられている。そういえば、鹿野君は老フアンが秘蔵していた「宵待草」の心を描いた夢ニの未発表の画を苦労して探し出し、56年振りに公開もしている。
 夢二を最後まで看取った婦長さんの話によると、「随分勝手なことをやってきたが、これは僕の運命だと思う」といって380円入った袋を婦長さんに渡したという。この頃、事務員の月収は40円から60円、背広既製品15円、注文品25円であるから、今のお金に換算すると、ざっと380万円ぐらいになるであろうか。夢二はそれなりに覚悟はしていたということであろう。

(柳 路夫)

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