2004年(平成16年)9月20日号

No.264

銀座一丁目新聞

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安全地帯(86)

信濃 太郎

人間は動物である
 

 人生の難球をマリナーズのイチローのように巧に打ち返えせなかった。時にはよけそこねて体に当たった。見事に打ち返したのは数少ない。それでも打率は2割9分位であろうか。70歳すぎて、慌てず、ゆっくり、のんびりを心がけて事を処することにした。坂村真民さんの詩「サラリと 生きてゆかん 雲の如くに」には共感した。
 4年前からネット上に「銀座俳句道場」を開設した。その趣旨に「自然を愛し、人を敬い、己を鍛えるため」と謳った。人間は死ぬまで「学習」である。俳句の道は奥深い。「菊の香や奈良には古き仏達」「秋深き隣は何をする人ぞ」・・・いまだにスタート地点でうろうろしている。今は手元にある俳書を何度も繰り返して読んでいる。
 毎日新聞の後輩、御手洗恭二さん(46)は小学校6年生の愛娘を殺害した同級生の女子が「一般的な普通の子供」であることにとまどっている。「普通の子」が殺人を起こすのが納得できないのである。無理もない。私も解らない。だが人間は動物である。学習しなければ、感情のままに生きる。殺意を抑止できずに実行する。動物の世界は弱肉強食である。人を殺す理由は欲望だけでなく今の世には色々ある。加害者の女の子の場合、きわめて現代的な原因のようである。インターネットへの書き込みが存在感を確認できる唯一の場所であった。被害者からの反論を進入と捉え、怒り殺意を抱いたという。私なら相手を殴って納める。相手を殺すようなことをしない。
 長崎家裁佐世保支部の決定要旨を見て驚いた。加害者の人格特性は少なからずの大人や子供でも持っている。私もそれに近い。生来的に「@対人的なことに注意が向きづらい特性」私も人のことを余り考えない。気配りをしない。すきなことをやるタイプである「A物事を断片的に捉える傾向」判断大局、着手小局という。これは大変難しい。即断する方である。独断偏見と綽名された。「B抽象的なものを言語化することの不器用さ」物事を具体的に言わなければすまない質である。抽象化すのが苦手である。「C聴覚的な情報よりも視覚的な情報の方が処理しやすい」テレビは余り見ないが、読書は大好きである。社会部記者であったので広く浅く本を読んだ。
 加害者の少女はたしかに「普通の子」である。普通の子が動物の領域に入り込むのはどうしてなのか。これまでオフになっていた「殺意実行」の遺伝子が強烈な欲望、抑えきれない怒りによってオンに成るからではないか。病気のメカニズムと同じようなものであろう。とすれば、殺意を鎮めるのは理性ではなく美しい感性であるような気がする。怒り、殺意、さびしさ、悲しさと鎮めるのはその人の感性である。その感性が育っていない人は自分の感情を抑えきれない。すぐに爆発させてしまう。そのために読書を勧めたい。私自身のことを言えば、若いときに古典を良く読んでいたら打率は3割5分位になっていたであろう。

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