毎日新聞社会部の先輩、三木正さんはアイデアに困った時は手元のある週刊誌をぺらぺらとめくれ。すると何かヒントが浮かんでくると教えてくれた。名前は忘れたが「イロハニホヘト・・・」をとなえるといいアイデアが出てくるといった人がいた。私はひまがあると、画集を見る。
さる日、読売新聞の芥川喜好記者(編・文)の「画家たちの四季」(読売新聞社刊)をみていたら、与謝蕪村の「鳶烏図」が目についた。枝に止まっている二羽の烏が降りくる雪に神妙にしている図である。芥川さんの文によると「安永7年、数え年63歳の年に『謝寅』〈しゃいん〉の号を使い始めたころから蕪村の画は目ざましい進展を遂げ、残り5年ほどで水墨も俳画も彩色画も生涯最高水準のものを生んでいる。そのこと自体、近世絵画史の謎のようなものであろう」とある。
このころ蕪村は人生の転機を迎えている。最愛の一人娘の結婚が破れたのは安永6年〈1777年)である。嫁ぎ先は富裕であったが蕪村とは肌合いが会わなかったようである。また娘は病を患ったとも伝えられている。芸妓との老いらくの恋もこの頃で、蕪村65歳である。仲間から意見もさ
れている。その返事に「妹がかきね三味線草の花さきぬ」を添えている。その前に、『老いが恋忘れんとすれば時雨かな』の句もある〈蕪村58歳の作)。
蕪村は幼時から画に長じた。68歳でこの世を去るのだが、晩年に見事に花を咲かせたのは、父親としての悲嘆と苦悩、思い切れない老いらくの恋のなせる技ではないだろうか。とすればもう一羽の烏は芸妓ではないだろうか。67歳の時に刊行した「花鳥篇」にその芸妓の句をいれている。女に深い愛情を持っていたのである。蕪村が好きになった。
(柳 路夫) |