2004年(平成16年)8月1日号

No.259

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

 

追悼録(174)

山本光春社長を偲ぶ

  書棚をみていると、何故か毎日新聞社長を務めた「山本光春・追悼録」が目にとまった。筆者が第一線で働いている頃すでに出版局長(昭和26年)編集局長(昭和30年)と雲の上の人であった。「カミソリ光春(コーシュン)」といわれた仕事の出来た記者であったと先輩から教えられた。大東亞戦争の最中の昭和19年2月22日に起きた「竹槍事件」で「竹槍では間にあわぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」の見出しをつけた整理部記者である。時に山本さんは39歳であった。書いたのは海軍省記者クラブのキャップ新名丈夫記者であった。この記事は当時の東条英機首相の逆鱗に触れ、吉岡文六編集局長、加茂勝男編集局次長兼整理部長は辞任、新名記者は懲罰召集、山本副部長は丸坊主となった。追悼録には「学童疎開」は山本さんの新造語とある。社会部長であった飛島定城さんが憲兵隊に呼び出されて、社会面の「学童疎開」という見出しは「戦意を喪失する」と抗議を受けた。2、3日憲兵隊にとめられたという。筆者は昭和56年6月、西部本社代表になったが、山本さんは24年前の昭和32年8月に西部本社代表になっている。小倉の著名人から山本さんの消息をよく尋ねられた。上京してたまたま所用で社に来ていた山本さんとお顔合わせると「頑張っているそうだな」と先輩のよしみでよく声を掛けられた。
決断の人であった。沖縄機密漏洩事件で会社は二審から手を引くことを決めた。一審で無罪判決と同時に西山記者が退職願を出して退職、すでに毎日新聞の記者でなくなった。また裁判費用もかかるというのが理由であった。この話をきいて政治部長の金野宗次さん(故人)が山本社長に直訴した。「知る権利、報道の自由を掲げて戦ってきた立場を今になって放棄する事は、社自体天下の笑いものになる。絶対に二審も社が正面切って望むべきです」。「よしわかった。二審も社でやる」と断言された。いま読み返してみると、この追悼録は山本さんの悪い面も描かれておりきわめて人間くさい。その中で元取締役の朝居正彦さんがこんなことを書いている。「昭和63年11月16日芝増上寺で東京スポニチ社長和田準一氏の密葬が行われた。定刻までの寸時をOB諸氏との雑談で過ごした。その折に牧内節男君から『追悼文をはじめから終りまで故人の暗い点ばかりを拾い上げて綴ずれたら立派なトップ記事だ』といわれた。私が追悼文が苦手だ、故人とのよい思い出を語るよりどうも触れられたくない点を暴露しようとする癖があるので、と嘆いた事に対する回答だった」朝居さんの一文は山本さんが梁山泊の大親分であった事実を赤裸々に紹介しており、山本さんを偲ぶ切々たる気持ちが良く出ている。毎日新聞には立派な社長も優れた人材も居たのだと、感慨一入である。山本光春さんは昭和63年2月なくなった。享年83歳であった。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp