6月24日(水) 雨
雨・・・・・
どしゃ降りの音のなかにワ〜シワ〜シと熊蝉の声。七時前後と八時前後のその頃に。耳をすまして聞き入られずにいられぬ懸命の声に今年も遭いえているのかと感慨。憧憬の死が至らねば生は余儀なし。静かな諦観?と自ら眺めやる私の内奥が痛ましくも不憫とも。
ともあれ生活者私はこうして今日もかくてありけりよ。
何ヶ月かまでに諳んじていた藤村の詩だが、肝心のその水落礼子先輩は入院五か月。そう。二月二十三日入院と知らせを受けたのだ。
リハビリ中という状況伝達の酒井満子さんがお役目ストップ。車運転手さんのおかげ故に来室可能、その運転手の弟ごが骨折という電話。満子さんも殆ど二重になった曲がった腰を伸ばし伸ばしの看護で有ろうか。
いやそれは妻女であろうか。
母を思う。
母の骨折(股関節頸部)は白寿くらいではなかったか。それ以前だったかもしれない。見事復帰することができた。
満身創痍の私とちって母は体にメスの経験がない健康優秀な体躯で幼児期からの一路。私が下膳を急きたてたばかりに母は向きを変えようとしたとたん、お膳を持ったまま転倒。膳部の上の器物は散乱したけれどお膳を離すことのなかった母であった。
後頭部に結ぶ髷の支えによって頭部は保護された。天祐とも神助とも陳腐なことばを私は呟いて祝した。
メスはその際野入院で母の体に入ることになる。手術しなければ看護・介助ができなくなると入院の松田整形で宣告されて。
私の一言が、言わでもの不要の一言が犯した母の脚の事故であった。にもかかわらず母は自らの不調法と思いこみ通して慚じた。
含羞をあれほど終生失わなかった老いがあろうか。
同年代の村のおばさん達一人ひとり思い廻しても首は横に振り通す。村のおばさん達波皆、田圃大作のお金持ちの家刀自でプライド高いそれなりの威厳らしきものを具備されていた。
大久保家のタツノおばさんも池の上のチエノおばさんも。
大久保の背丈高かったおばさんは二重直角なりに曲げたり、うーんと後ろに反ったりの歩きぶりであり、チエノおばさんは顔面神経痛とやらで口歪りになりつつも、威は面から決して消えることはなかった。
しかし母の柔和な顔貌に漂うはにかみは母特有。他の顔のいずれの方にも現れることはなかった。あれは私利私欲を払拭した神絶対の至純な魂、というものの自然の示現であったのではないか。
老いも若きも男も女も問うことのない、人間の品格、にんげんの尊厳性の自然な至極しぜんな湧出ではなかろうか。
母よ!
あの面差しのなつかしさゆかしさ!讃得つつ親しみつつ仰ぎつつこの思いを当然の娘として私は告げるべきでした。どんなにどんなに喜んでくださっただろうに・・・煎れてくださるひと啜り二すすりくらいの少量のお茶は私の好む量。遠慮会釈のない苦情を投げた。その数まるまるを吸収なさるあなた。ああおいしい!と告げる一言をどんなに大きな喜びとして下さったことか。「おまいののそげん喜うでくるっと嬉しか・・・」
と。
母よ!
看護する娘の喜びを全くお心お体まるごとで自らの喜びとも嬉しさともして下さったその心情こそ、親心・母親の心というもので、永遠の、母親ならではの。至高の美しい心の精神の形ではないでしょうか。
倖せでした。
ほんとうに倖せでした。
反比例する不孝者の娘でした。
今日は月例行事の誕生会の中食。お膳はふつう通理でしたが一皿の刺身の美しさ清々しさ! エッだったのですよ。弘法大師が一枚の笹の葉を
お採りになってお流しになった筑後川! そしたら忽ち変身してこの川しか棲息しないこの魚に!一粒のほんものの櫻桃が彩りを副えていましたね。例によってツマの大根の千切りはお醤油なしに生の昔味を味会いましたが、デザートの梅酒ともども、そうそう卵豆腐も嬉しうれしの賞味となりました。
母よ!
言うことなし、申し分なしのお昼食、と同じように今日も佳き日中.五時四十分只今を時計の針は指しています。日録をしたためる私は、夕顔も早々にすませてもらい、孔子(井上靖著・平成元年購読)も終章の半ばの頁となり佳き日の一端をになってくれました。
底流の死への憧憬はいよいよ厚く深く関わりつつも、表面の流は逝くもののすがたに間を置くことなく流にながれて擱筆の刻をむかえております。
母よ!
今夜もまた夢見が楽しみです。
現れて下さいね。
今暁の夢見はカビが何も置いていない棚という棚に生えていましたね、先ずは空拭き、次は熱湯、そしてまた空拭きしなくちゃあ、という芳しからぬ一幕でしたが。
夜は十時までラジオを聴き以後はおおかた今日読んだ孔子の片々を主に、あちこち思い寄せながら睡りにつくでしょう。
熊蝉たちはこの雨にしっかり葉蔭に潜んでいることでしょう。朝は七時前後と八時前後に啼き声を聴かせてくれましたが。
ラジオは娯楽番組の浪曲を睡りがぶりに聞くことでしょう。芸人さんもいろいろ。必至の渡世術? の階層ではないでしょうか。浪曲師さんたちは。
池上三重子さんの略歴
1924年福岡県三潴郡大莞村(おおいむら・現大木町)に生まれる。福岡女子師範(現福岡教育大)卒業後、小学校教諭を務め、50年(昭和25年)に結婚、54年〈同29年)30歳の秋に発病、多発性リューマチ様関節炎と診断される。やがて不治の宣告を受け63年〈同38年)に.夫の愛ゆえに妻の座を返上.病床に金縛り同然の身を母キクさんに支えられながら療養生活を続ける.88年〈同63年)たくまざるユーモア精神で終生、池上さんを励ましつづけた母上を105歳で見送る。
著書に.歌集「亜麻色の髪」、「妻の日の愛のかたみに」「わが母の命のかたみ」。夫への清冽な愛を短歌とともに綴った「妻の日の愛のかたみに」は感動を呼んでベストセラーになり、乙羽信子主演でテレビドラマに、若尾文子主演で映画になる。
現在、福岡県大川市の永寿園で療養中。
「書くことは生きること、心の平穏を得ること」と「自省抄」と名付けた日録を綴っている。
|