2004年(平成16年)6月1日号

No.253

銀座一丁目新聞

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茶説

人は善をなさんとして悪をなす



牧念人 悠々

  映画「フォッグ・オブ・ウォー」−マクナマラ元米国防長官の告白−を見る(5月24日・日本記者クラブ)適宜、ニュース写真をおり交えたインタービュー中心の映画だが107分の映写時間が短く感じられた。彼の体験から導き出された十一の教訓は今の時代と照らし合わせてずっしりと胸に響く。
ロバート・ストレンジ・マクナマラは35歳で当時最年少のハーバート大学経営学大学院助教授になり、44歳で史上最年少の国防長官に就任したアメリカ屈指のエリートである。現在88歳。第二次大戦の際3年間軍務につく。国防長官を6年11ヶ月務める。太平洋戦争では経営管理の理論を戦争に応用、攻撃効率を高めるため統計をとり、分析をする。この報告をもとに、日本に無差別絨毯爆撃が行われる。67の都市が50lから98lの被害を受けた。広島、長崎に原爆が投下される。指揮官はカーティス・E・ルメイ少将。ルメイ少将は効率を上げるため日本空襲に向うB29の爆撃高度を7500mから5000mに下げる。被害が多くなるという部下の苦情を「戦争に勝つためだ」と退ける。マクナマラは言う。「戦争で勝つためなら、一晩で10万人の市民を殺してもいいのか。我々は戦争犯罪人だ。勝ったから許されるのか」。ここから教訓4「効率を最大限に高めよ」。教訓5「戦争にも目的と手段の釣り合いが必要だ」。教訓6「データーを集めろ」が生まれる。
 1962年10月キューバ・ミサイル危機がおきる。「ソ連との全面核戦争不可避」というのが閣内の雰囲気であった。ソ連問題顧問ルエリン・トプソン(元ソ連大使)の進言でケネディ大統領がソ連の提案「ソ連はキューバのミサイルを除去、今後攻撃的武器を持ち込まない。米国はキューバに侵攻しないと約束する」の受け入れを決断、核戦争が回避された。30年後マクナマラはカストロから「当時ソ連に核攻撃を進言した」と知らされたという。このときアメリカが海上封鎖作戦をとったが、この作戦は「黙って見ているのと戦争に訴えるのとの中間の方法」で、マクナマラ国防長官の発案であった。「人は何度でも同じ過ちを犯す。3度ミスすれば4度目は避けられるかもしれないが、核の時代にはその理論は通用しない」と語る。教訓1「相手の身になっ て考えよ」泥沼のベトナム戦争の時、国防長官であった(1961年1月就任)。1961年4月南ベトナムに軍事顧問増派決定。1962年2月サイゴンに米軍事支援司令部発足。1963年11月ケネディ大統領暗殺。1964年8月トンキン湾事件。1965年1月北爆開始。同年3月枯葉剤の使用を認める。1967年11月国防長官辞任。「ベトナム戦争拡大に責任を感じているのか」あるい は「自分はコントロール不可能な出来事のひとつの歯車だったと感じているのか」の質問に「大統領に仕えようと務めたのだ」と答える。
 教訓11は「人間の本質は変えられない」である。混乱しているときに、好戦的で常軌を逸する、それが人間であるという意味である。第一次大戦が終わったとき(1918年11月)、アメリカの28代大統領ウィドロウ・ウィルソン(1920年ノーベル平和賞授賞)は「この戦争は戦争をなくさせるものである」と演説した。戦争は次なる戦争を呼ぶ。エロール・モリス監督が提示する問題「我々は過去の過ちを繰り返す運命にあるのか」は、残念ながら「イエス」と答えざるをえない。なお、 教訓2「理性は助けにならない」教訓3「自己を超えた何かのために」教訓7「目に見えた事実が正しいとは限らない」教訓8「理由付けを再検証せよ」教訓9「人は善をなさんとして悪をなす」教訓10「決してとは決して言うな」。決して「人間は過ちを犯す動物でない」とは決して言わない。

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