2003年(平成15年)12月20日号

No.237

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
静かなる日々
お耳を拝借
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

花ある風景(151)

並木 徹

花なくば、おもしろき所あるまじ

  山崎正和作・栗山民也演出「世阿彌」を見た(12月18日・新国立劇場中劇場)。
男性客が4割ぐらいいたのには驚いた。昨今は劇場の観客の9割が女性であるのが当たり前である。演目故であろうか。「風姿花伝」には「因果の花を知る事。極めなるべし。一切皆因果なり」とある。因果の花をさとる事、これが文筆の道の極意であると思い、「世阿彌」の感想を綴りたい。
 時代は応永15年(1408年)の4月から永享4年(1432年)8月。世阿彌が46歳から70歳までにあたる。世阿彌のいう「ようよう年たけゆけば身の花も余所目のはなも失するなり」を経て「麒麟も老いては駑馬に劣る」こととなり「これ、眼の当たり、老骨に残りし花の証拠なり」に落ち着く。世阿彌は芸における花の大切さと、その花が老いても失われぬ事実を、しっかりと自分の目で見て、感じる事が出来た人である。
 まずは光と闇と影の問答からはじめる。足利義持(田代隆秀)が巫女の老婆(倉野章子)に行く末を問う。老婆は答える。「光はじきに闇となる。闇はじきに光となる」。義満が光であれば闇は義持となる。義持を光とすれば異腹の弟の義嗣(風間杜夫)が闇となる。因果は巡るということか。時には骨肉の争いもするということか。老婆はさらに言う。「闇はいつかは光になりましょう。が、影はいつまでも影。影法師のままはてまする」。侍所所司、赤松氏(佐藤裕四)はいう。「さしずめ世阿彌のごときがその口だな。あれは生まれも世の日陰者。おまけに男子としてもいわば影法師だ」。大江望房(山崎清介)と三条公忠(沖q一郎)との問答のなかにも影の話が出てくる。契りを結んだ娘に似せた猿樂の面を作ったところ、恋焦がれていたその女よりもその面を愛するようになった例をあげて「私の眼が影に命を与えた」という。さらに「ひとはこの世に遺恨を抱いて見物席につくのです。舞台の上には三千世界の影がある。それに本物以上の命を与えることで、人はこの世に仕返しをしているのです」とも語る。世阿彌は世界で始めて、観客についてまともに考えた演劇人であったという(松岡心平)。私は坂東三津五郎が世阿彌をやるというので見にきただけで、何の遺恨もない。舞台の影に命を与えるだけの眼力はさらさらない。
 最後に「風姿花伝」について世阿彌が次男元能(中村育二)の「音阿彌(石田圭裕)づれに秘伝を残して能が守れたとお思いか」と言う問いに答える言葉が含蓄があっていい。「お前も若いな。わからぬか。あれは私の、仕掛けた罠だ。この先多くの猿楽師が。あれに足をばすくわれるであろう。凡庸の者は言葉にとらわれ、形ばかりの能を演じる。覇気ある者は殊更に、あれに背いて形を破る。だが、そのゆえに才子は却って才に溺れるのだ。この先何百年、あれは無数のニセ物どもの、躓きの石となるのだ。長い長い時の歩みに、私は立ちはだかってやるのだ」「風姿花伝」が完成したのが応永25年(1418年)である。シェイクスピアが悲劇「ハムレット」を世に出したのが1601年だから183年も前の話である。世阿彌はすごいと思う。私も罠にはまる口だから自戒したい。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp