2003年(平成15年)11月1日号

No.232

銀座一丁目新聞

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追悼録(147)

 野沢井さんヒマラヤに死す

 スポニチ登山学校の講師(日本ヒマラヤ協会理事)野沢井歩さんが10月2日12時ごろ、ネパールのペリヒマールに聳えるヒルムン・ヒマール(7126メートル)北西稜の標高6100m付近で雪崩に遭い、なくなった。享年39歳であった。スポニチ登山学校としては2001年10月、ダウラギリで遭難した星野竜史さんについで二人目の犠牲者である。10月25日水戸で山男、登山学校の生徒達多数が参列して告別式が行われた。
 野沢井さんは机上講座、山行きに登山学校の生徒とともに行動した。富士山の強力を職業とされ、顔は童顔だが、日に焼け黒かった。会えば人なつっこい笑顔をみせ皆から愛された好青年であった。生徒達に与えたショックは大きかった。7期生の淵上勝子さんは哀悼の一文を寄せた。「10月4日、妙高山を、つばめ温泉に下山してきた時、新聞を片手に血相を変えてホテルの玄関を飛び出してきた6期の坂元重顕さんが野沢井先生がヒマラヤで雪崩にあってなくなったと涙を浮かべている。『えっ、ウソでしょう。まさか』と我々は新聞を覗き込んでそこに野沢井先生の死亡記事が載っているのを読んだ。とたんにこみ上げてくるものがあり、涙ぐんでしまった。(中略) 雪崩にあった瞬間歩先生は何を心・頭の中に思っただろう。『あっ しまった。俺もか』と両親。家族の事一番大事に思っている恋しい人。尾形先生方々色々とあると思う。そのなかに我等登山学校生徒のことを少しでも頭の中をかすめてくれただろうかと・・・私はこのことを思い歩先生に聞いてみたい。(中略)最後に歩先生と言葉を交わしたのは8月23日、甲斐駒山頂。『先生下りはどのくらい時間を見ればよいのですか』の質問に『え・・・一時間』なんて冗談を言い合い、そのときの話では9月にはいってヒマラヤへ行くと、今思えばこのときの話がこの雪崩事故につながっていたのだ。書けば書くほど姿が浮かんできて頭から離れない。今現実に歩先生はいない。本当に悔しい。信じられない。また山行に現れるのではないかと思ってしまう」
 群馬県山岳協会の会長星野光さんの話では統計上アルピニストは12回目から「死の危険状態」に入るという。野沢井さんの登山歴を見ると6000m以上が10回、7000m以上が8回、8000m以上が3回となっている。山が好きな人に登るなといっても無理であろう。ご冥福をお祈りする。もっとも淵上さんは(でもいやだ大好きな歩先生返って来て)と書いていた。

(柳 路夫)

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