静かなる日々 ─
わが老々介護日誌─
(14)
星 瑠璃子
7月22日
後藤治『和子─アルツハイマー病の妻と生きる』(2002年・亜璃西社)を読む。
著者が心臓病のため高校教師を退職した年の暮れ、同じ高校で音楽教師だった妻の和子さんが突然、若年性アルツハマー病の中期と診断される。大脳の右側頭葉が萎縮し「医者なら誰でも、在宅介護のレベルを越えていると考える」状態であった。そのとき、夫61歳、妻56歳。以後10年間の介護の記録を、夫は数カ月ごとにメールマガジンで発信し続けた。それを1冊にまとめたのがこの本だ。
苦心して作ったスパゲティを床に皿ごとぶちまけてしまうのを片付けながら、そのことが妻に心の傷となって残らないようにと気づかう夫。手づかみで食べる妻を見遣りながら、「箸で食べなければいけないなんていうのは、こちら側の論理ですから」と考える夫。何気なく使われている「痴呆性老人を抱えて」という表現に怒り、「『抱えている』なんて思ったことは一度だってありません。『向き合っている』だけです」と書く夫。
いま和子さんは「要介護5」。初期の頃には、低く口ずさんでいたブラームスも、もう妻の唇からもれることはない。夫のことはもちろん、自分がだれかもわからない。けれども著者は妻と連れ立って、静かに、慈しむように日々を過ごす。妻が大好きだったバッハやモーツアルトに耳かたむけながら。
かつての教え子、恵泉女学院教授新妻昭夫氏は朝日新聞の書評でこう書いた。
「周囲の人々や介護制度に協力を求め、また社会に対して発信し発言する前向きな姿勢がなければ、この十年はなかっただろう。……著者は私の高校時代の物理の先生。こういう人に教わったことを、私は大きな声で自慢したい」
初めの6年間を在宅で地域の福祉を利用しながら過ごした和子さんは、後に特別養護老人ホームに移った。その頃のことは次のように書かれていて、私には最も哀切に響いた。
「特別養護老人ホームに入居しました。いつかはそんな日が来るかもしれない、そんな時の安心のためにと以前から申し込んであったのですが、現実のものになりました。
……とうとう『終の住処』を移したことの重さをかみしめています。勘違いしたひとから『ホームに入れてよかったですね』と言われるので困っています。『家に連れて帰りたい』と思わない日は一日もありません。何年も入所の順番を待っている方には申し訳ないのですが。…… 和子はまだ六十二歳ですが、『老いて施設に住む』とはこういうことなのかと、一日中考えます」
本の中には、夫の撮った妻の写真が50枚以上も挿入されているのだが、写真のなかの和子さんは、カメラに向かって穏やかに、ときにはまぶしいほど晴れやかな笑顔で笑っていた。アルツハイマー病の人は決して笑うことがないというのに。
7月23日
母、2カ月半ぶりに美容院へ。髪を栗色に染めてきれいにセットすると、ようやく入院前の母に戻った。帰途、これも久しぶりのお寿司屋さんへ。あまり食べられなかったけれど、よほど嬉しかったのだろう、「少しドライブをして帰りましょう」とはしゃいでいた。もちろんドライブなんてまだできはしないのだけれど。
7月24日
退院2週間目の G 病院。いつもはとりつくしまのない S
先生が、微笑を浮かべているのには驚いた。予想外の回復ぶりに戸惑っておられるのかもしれない。なにしろ「立てれば百点満点」と言われ続けていた94歳の母なのだから。次回は2か月後に「もう1度レントゲンを撮ってみましょう」とのこと。転ぶとか、よほどのへまをしないかぎり、足のほうはもう殆ど心配ないらしい。
問題はアタマだ。うっかりすると入院したことも忘れてしまって、以下のような会話は退院後に何回くり返したかしれない。分かっている時は分かっているのだから、一時的な記憶喪失、混乱と思うのだが。
「入院って、どこに? どのくらい?」
「 G 病院でしょ。2カ月もいたのよ」
「いったいどうして?」
「転んで骨折して手術をしたんでしょ。救急車で運ばれたのよ」
「どこで転んだの? 骨折って、どこが折れたの? なんにも覚えていないわ。いったいどうしちゃったんでしょうねえ」
7月25日
猛暑の中、障害者手帳申請のために、新宿にある都の心身障害者福祉センターへ母を伴う。ここで手帳取得のための診察を受け、診断書を書いてもらうのである。病院でできるところもあるらしいのだが、G
病院にはそのシステムがなかった。
「そこまでして手帳の必要があるんですかねえ」と、療養病棟の婦長は言ったが、取得することのデメリットなどなにひとつないではないか。G病院には人工骨頭置換手術をしたひとは沢山いるのに、手帳の交付について尋ねたのはどうやら私だけらしかった。
それにしても思うのは、障害者手帳にしろ、介護保険にしろ、自立支援制度にしても、「福祉」はかなり充実してきているのに、あちらから手を差し伸べるということは殆どない。常に自分で探し、調べ、粘りに粘ってようやくその入り口までこぎつけるのである。
福祉センターの医師は快活な人で、楽し気におしゃべりをしながら4級の診断書を書いてくれた。これだけのことでも、孤島で人に出会ったような嬉しさだ。
帰途、目白のホテル「カトル・セゾン」でお茶。母はレモンのシャーベットを美味しい美味しいと食べる。一度家に帰ってから、区の福祉事務所に診断書を届けに行く。1カ月後に手帳が交付されるという。忙しい一日だった。体重がどんどん減っていく。 |